[投稿]待望のキューバ教育の本
「世界がキューバの高学力に注目するわけ」(吉田太郎著 築地書館 2008/10/9)

 本書は、豊かな国や豊かな家庭の子どもほど学力も高いという調査結果(ユネスコなど)を覆し、貧しいキューバの子どもたちが先進国に勝るとも劣らぬ高い学力を身につけていることの紹介から始まる。ある教育の専門家は、キューバについて「学校への入学率、識字力の高さ、女性の大学進学率、高い科学力、レベルの高い教師たち、地域格差のない平等な教育機会。開発途上国であるとはいえ、教育の成果は歴然としている。OECD諸国の学校と変わらず、これは、一貫した教育戦略と教育への多額の投資の賜物といえる」と評価する。
 だが、私にとっての関心は、貧しい国において優れた成績を収めているという点だけでなく、社会主義における教育がどうあるべきなのか、いや現にどうなっているのか、主義主張をステレオタイプに教え込むような一面的な教育が行われていないのかということを知りたいという点にあった。そういう意味でこの本は、私にとって待望の本だった。そして、吉田氏の前書『世界がキューバの医療に注目するわけ』の“二番煎じ”である本書に対して、「医療はうまくいったとしても、教育はそう簡単にはいかないだろう。なぜなら教育はイデオロギッシュであり、人を育てるという困難な事業であるからだ」という思いこみがあった。確かに、さまざまな制度的な試行錯誤や紆余曲折が紹介されていた。だが、読み進んでいるうちに、ぐいぐいと引き込まれていった。本書はキューバの教育制度や教育内容について著者が見聞した事柄を半ば表面的に紹介されているだけで、深い教育理論にまで掘り下げたものではない。しかし、その限られた中からでも、キューバの教育が子どもたちの人格を尊重し、自主的に学び成長していくことを大切にしていることが伝わってくる。その根底には、「無料の教育は国民の権利」という思想がある。
 以下本書の記述に沿って、私が特に強い印象を受けたキューバの教育の具体的な内容と教育政策を紹介したい。それは、医療でも重要な意味をもっていたコミュニティとの緊密な関係、教育と労働との結合、それを保障する教育投資の大きさ、ユニークな「学び合い」、生涯教育と労働組合の役割、革命直後の識字運動の巨大な意義等々である。

教育の目的は「真に自由になることだ」(ホセ・マルティ)を実践するキューバの教育
 まず私が本書から感じたのは、人民の教育の権利は社会主義において全面的に保障されるだろうということだ。それは、形式的な面だけではない。内容的にも「自由や民主主義を学び人格を形成していく」という教育の本来の姿がキューバでは全面的に保障されていると感じた。というのも、形式的に教育の機会が与えられたとしても、国家の政策やイデオロギー、プロパガンダを詰め込んでいくような画一的な教育が「社会主義教育」の名の下に行われていたとしたら、それは教育の権利が保障されているとは言えないだろうからである。
キューバがすごいのは、国民が教育を受けて知識を得、豊かな人間性を獲得していくことを国家が恐れていないことだと思う。国家が国民を恐れない――これは当たり前のことだろうか。いや必ずしもそうではない、国家権力にとっては国民の無知や無関心は好都合であり、国民を知識から遠ざける“愚民化政策”がとられるからである。だが明らかにキューバ政府は人々の教育と批判精神の育成が国と権力の強化につながると考えていると感じる。そのような中で、「社会のために役に立ちたい」「世界の苦痛に敏感でありたい」というような感性が培われるのだと思う。教育の目的は「子どもの人格形成」「真理を探究し教養を高め真に自由になることだ」(ホセマルティ)。だから、子どもたちが生き生きとしているのだと思う。
 フィデルは言う「教育されることが自由になる唯一の方法だ。ホセ・マルティの言葉は、いまという時代においては、これまで以上に意味を持つ。何百万人もの人民が読み書きできないときに、どうして自由や民主主義について語ることができるだろうか。特権階級や支配者たちは世界人民の多くが非識字者や準識字者状態におかれていることを熱望している。なぜならば、詐欺と偽りが人民を略奪し奴隷化するために選ばれた武器だからだ。」

日本や米国の格差教育政策と対極にある、キューバの地域・家庭に根ざした教育
 その中で、キューバ教育制度の優位として上げるべきは、まず第一にコミュニティとの結びつきの強さだろう。キューバでは歩いて通えるコミュニティ内に小学校がある。そして教員特に小学校の教員と地域=コミュニティとの結びつきの強さは圧倒的である。どの子どもにも最低限必要なことを身に付けさせることが、キューバの教育目標だという。小学校や中学校は同じ教師が全教科を教え、小学校6年間は同じ教師が指導する。教師は一人一人の生徒やその興味と希望、家庭事情まで熟知しており、勉強と日常生活の両面でサポートする。『学校委員会』『親委員会』『勉強の家』『未成年対策委員会』等々の制度がある。教師は、『親委員会』や『親の学校』を通じて、地域住民や両親と顔なじみとなり、各家庭を訪ね、「親の教育」にも携わる。地元や各家庭事情に精通している。まるで教育版ポリクリニコだ。医療がそうであったように、教育も専門家だけでなく、地域に根ざし地域全体で支えるという考え方だ。学校選択制というような、地域とのつながりを断ち格差を極限まで押し広げる政策の対極にある制度といえるだろう。
 保育園のあり方もまた驚きだ。公園にいるお年寄りや母親にも保育活動に関与してもらい、公園や街全体を保育園にしてしまうというような発想がある。教育大学も地域と学校に密着している。「学校が大学だ」というのは、小中高校の校舎で夜間に大学が開かれるということであるが、それだけではない。大学の2回生以上にもなると、大学に通って教育論を学ぶのではなく、教育実習として小中学校に出向き教員の補助をし子どもたちと接する中で学んでいくのだという。次のような言葉が紹介されている「家庭、学校、コミュニティ。この3要素のすべてがなければ、学校はその本来の目的を達成できません。知識だけでなく、情緒や行動、信念と全人的な教育をすることが重要です。」
※首をかしげたくなるようなことも紹介されている。たとえば、小学校での落第制度や、教員に対する勤務評定もそうだ。ただこれらも、格差と切り捨て、受験競争、学校運営の「経営化」「効率化」、「落ちこぼし」などの環境下にある資本主義日本と同列に問題にすることはできないだろう。もっと深く研究してみたい。

教育における平等・自由と“学び合い”。教育と労働の結合
 平等・自由も徹底している。キューバ国内の学校の制服はどこでも同じ。教科書は使い回し。学年があがった始業式の時に子供たちが最初にすることは、教科書の修理だそうだ。大量生産・大量消費の日本では考えられないことだ。大学以外はどこも制服着用が義務づけられているが、これは出身家庭による身なりの差をなくすために革命後に設けられた方針だという。小学校20人学級、中学校15人学級、高校は30人学級だ。過疎地では1人しか生徒のいない小学校もある。都市と農村の教育内容、成績に開きがない。
 中でもユニークなのは『勉強の家』という“学び合い”である。教育機会は平等だがクラスメート同士や校内の他のクラスと競争し合うことが奨励されている。この競争は他人をけ落とすためでなく、仲間と助け合って自分を磨く手段と考えられているという。自主研究と自習とを組み合わせたグループ学習で、一番できる生徒がリーダーとなって成績の低いクラスメートを指導して面倒を見る。高校では高校生も理事会に加わり、問題を解決し、学生たちが協力し合って学ぶことを重視している。
 また、小学校からある『趣味サークル活動』は、中学校の進学に必要な知識や学力を身につける場なのだが、同時に社会の中で働くことの意義を学ばせる役割を持つという。やりたいことが見つからなければ、勉強への意欲もわかないというわけだ。だから、授業も現実社会とつながりを重視しているし、授業の約10パーセントは、労働教育や社会と関わる内容となっているという。吉田氏は、労働と教育の結合のオリジナルはホセ・マルティに由来するとして次のような言葉を引用している。「朝にペンを持たば、午後には耕せ」「不毛で間接的な書物での学びを、直接で実りの多い自然についての知識に置き換えることが緊急課題だ」。高校、大学へといけば、さらに労働、現場との結びつきは強まる。

貧しくとも教育にお金を惜しまないキューバ
 このような手厚い教育を保障するのが教育投資だ。キューバの教育費はGNPの12.3パーセント。日本は4.7パーセント。ユネスコはGNPの最低6パーセントを教育費に割くことを推奨している。注目を集めるフィンランドでも6.4パーセントだ。無料の教育(小学校から大学まで)。学ぶ社会人には給料が支給される。給料も、保育園の教師でも大学教授と同水準で、医師や技師といった専門職ともほとんど遜色がない。2002年には観光業などへの人材の流出を食い止めるために教師の給与を30パーセントアップすることが決まった。卒業者全員の就職先が保証されている。自己研鑽のためのセミナーや研修は、勤務時間内に行われ、その間の授業は免除される。日本で生涯学習といえば「カルチャー教室」のようなものがイメージされるが、キューバでは、様々な技術取得や学習が、労働と同一とみなされ給与が支払われるのである。教育投資とは、単に教員や学校への予算配分だけでなく、市民が生涯にわたって学び自己を高めていく財政的制度的保障を意味している。

リストラでむしろ給料がアップ:「仕事としての学習」と社会主義における労働組合の役割
 2002年4月、サトウキビの生産面積と製糖工場をほぼ半減する指示が出された。労働者も25パーセント以上がリストラされてしまうことになった。この「撤退作戦」は、全職場で徹底的に説明され、政府や組合、その他の大組織は、労働者全員が参加する会議を8ヶ月にわたり開き続け、リストラとその影響を議論し合ったのだ。のべ回数では7850回に及び、計94万2000人が参加したという。労使交渉が行われ、リストラされても給料がむしろアップし全国砂糖従業員組合の会員資格はなくならなかった。製糖業に従事していた労働者全員は、学校に通おう(「仕事としての学習」)が、新たな仕事に就こうが、以前の給料を保証されることになったのである。
 2002年10月アルテミサでフィデルは、「キューバが資本主義国では行うことや夢に見ることすらできない雇用創出という事業」に取り組み、若者たちに尊厳や未来を保障していることを語っている。ここで私が注目したいのは、社会主義における労働組合の役割だ。労働組合が国家権力の補完物や国家機関の一部になるのではなく、労働者が権利を行使し、政策決定に関与し、民主主義を獲得するための重要な組織として存在しているということがわかる。労使交渉を行い、国家権力に対して労働者の権利を主張する。リストラと労働者の処遇を労働者自身が討論し結論を出していくというスタイルは資本主義国では考えられない。全員参加型民主主義の実例として出ていることに注目したい。

「わずか8ヶ月間で100万人が文字を学ぶ」――識字キャンペーンの社会主義建設にとっての意義
 革命直後にキューバ政府は、すべての国民が読み書きできるように、すでに読み書きができる人がボランティアで国内各地へ教師として出向くという、一大キャンペーンを実施した。革命軍の兵士の多くが非識字者だったため、「反乱軍文化局」(後の国防省教育局)が創設され、1959年2月から、兵士たちの識字教育が着手されていた。まず、実態把握がなされた結果約100万人(当時の全人口は700万)が非識字者であった。教える側として動員されたのは、1万人もの失業していた教師や資格や余裕のある労働者であったが、なんと小学校6年以上の生徒たちの志願者である学生ボランティア10万5664人を主に農村に派遣したのだ。そのため国内の全中高校は8ヶ月も閉鎖されたという。
 キャンペーンの初日(1961年4月15日)には、CIAが援助する無差別爆撃でハバナ近郊では多くの死傷者がでたが、多くの若者たちは、命を落とす危険を顧みず熱狂的に自ら農村に赴いていった。革命が掲げる社会正義の実現と市民の連帯意識を醸成する上で、運動が果たした役割は大きい。この運動は、もう一つ重要な側面を持っていた。それは、教師として派遣された小中学生たちが、貧しい農村に行き彼らとともに働き寝起きをすることで、農民たちから信頼を得、また農村の実情を知ることができたことである。
 フィデルは識字運動について、人類が生み出してきた莫大な精神的な富を人民が得る手段として位置づけると共に、国家にとっての意義を「教育なくして国家の発展はありえない。革命が計画している科学や経済の一大プロジェクトを推進するのに欠かせない」と語っている。
 社会主義を建設するためには、そして人民自らが社会主義建設に携わっていくためには、教育が、そしてその一歩である読み書きが不可欠だ。ここにも積極的に社会主義建設に人民を引き入れていこうという姿勢が見える。それがキューバの参加型民主主義、「プロレタリア独裁」の基礎と感じた。

もっと知りたくなってくるキューバの教育理論
 著者の吉田太郎氏は、「ホセ・マルティと、そしてフィデルの思想にキューバの教育制度は由来し、労働教育も将来の職業教育で、ホセ・マルティの思想に由来するものだ」と書いている。また、キューバの教育理論がマルクス・レーニン主義であることを再三強調し、またヴィゴツキーとクルプスカヤに基礎を置くことを指摘している。だがどのような意味でそうなのか本文ではほとんど展開されていない。
 キューバの教育の根底には建国の父、ホセ・マルティの「教養を身につけてこそ人は自由になれる」という言葉があり、それをカストロやゲバラが引き継ぎ、革命政権でそれを具体化させていったとされている。その具体化の一つ目が先に述べた「全国識字キャンペーン」であった。キャンペーンに取り組むことにより革命政権への信頼・支持が高まり、革命後50年間の様々な政策が農民や労働者から圧倒的に支持され続け、革命政権の下に団結していけたのである。だがキューバは教育政策においてさまざまな失敗や試行錯誤を繰り返してきており、単純に成果があがってきたというわけでもないことも指摘されている。それは、人間を作るという「教育」がもつ奥深く、豊かな中身とも絡むのだろう。
 私は教員でも教育の専門家でもないが、日本で進む愛国心教育、歴史のねつ造、子どもの心のコントロール、格差教育など、およそ本来あるべからざる教育の押しつけに危機感をもっている。そして社会主義キューバとカストロに対して、またゲバラの思想に対して強い共感を感じている。その共感は本書を読んでさらに強まった。そして、キューバの子ども達の生き生きとした表情の背景にはキューバの教育がある。そのような意味で、とにかく本書を紹介してみたいと思った。キューバの教育をもっと知りたいと思わせる書である。

2009年5月14日
リブ・イン・ピース☆9+25 N