[投稿]宇治逍遥記

山宣ゆかりの地を訪ねて


 1929年3月、労農党の代議士山本宣治――「山宣」という愛称で呼ばれていた――が右翼の凶刃に倒れて今年で80年になる。
 彼は、生物学者として科学的な性知識の普及に務め、子だくさんに苦しむ貧困家庭のために産児制限運動を展開し、必然的に貧困そのものをなくしていこうとする社会運動と結びついていった。大学を追われた後、労働運動や小作争議の支援を行い、普通選挙法が施行されて初めての国政選挙で労農党から立候補し、当選を果たした。労農党などの無産政党からは8人が当選したのだが、最後までその節を曲げなかったのは山宣だけであった。彼はただひとり治安維持法の改悪――最高刑を死刑とする――に反対し、その反対演説を行おうとしたが、その前夜に暗殺された。
 山宣の墓の裏には彼の最後の演説からとった言葉が刻まれている。
 「山宣ひとり孤塁を守る、だが私は淋しくない、背後には大衆が支持してゐるから」
 しかし、この言葉故に墓石は数年間横倒しにされ、碑文をセメントで塗りつぶすことを条件にやっと建立が許可された。しかし、そのセメントはしばしば山宣を慕う誰かの手によって警察の目を盗んで密かに削り取られ続けたのであった。

 私は、山宣の生涯を描いた映画『武器なき斗い』を見て、この山宣の墓をぜひとも訪れたいという気持ちになり、宇治に出かけた。
 京阪宇治線の終点宇治駅を降りて、宇治橋をわたり、歩いて20分ほどのところに墓地があり、多くの墓石が立ち並ぶ中に山宣の墓がある。表には「花屋敷山本家之墓」とあり、裏には山宣本人の名前と碑文、それから彼の両親、妻、子どもたちの名前が刻まれている。
 碑文の文字は想像していたより小さなものであった。しかし、権力はこの言葉が人目に触れることを許さなかった。そして、民衆は抵抗の証しとしてその言葉を何度も刻み直し続けた。この文字がここにあることが、その闘いを伝え続けている。

 宇治には山宣の実家「花やしき浮舟園」がある。もともと彼の両親が身体の弱い一人息子の養育のために建てた建物であったが、これが料亭・旅館となり、現在も山宣の孫が経営している。その当時から高級料亭として名をはせた花やしきは、山宣の活動を公私にわたって経済的に支え続けた。彼の両親はクリスチャンであった。父親は若い頃「泥亀」とあだ名されるほどの放蕩を繰り返し、家族からも見捨てられたところをキリスト教の宣教師との出会いによって立ち直ったという、まさに聖書の「放蕩息子」そのもののような人物であった。
 宇治平等院のすぐそばの宇治川沿いの道の両側にいくつもの増築を重ねた「花やしき浮舟園」があり、和洋中の食事の看板が連なっている。ここで食事をしてみたい気もしたが、一番安いランチが3150円というのだからおいそれとは手が出ない。
 しかし宇治川に面した景色は、まさに風光明媚という言葉がぴったりくる美しさで、この景色を朝夕見ながら山宣が育ったのだという思いに浸りながら、宇治川周辺の散策を続けた。

 宇治川の真ん中にある中の島にかけられた橋を渡って向こう岸に行くと、そこに宇治神社がある。宇治といえば、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のゆかりの地でもあったのだ。この人物は、『日本書紀』によれば、異母兄の仁徳と大王(おおきみ)の位を譲り合ったあげく自殺することによって仁徳を即位させたという「美談」の主である。菟道稚郎子は父親である応神によって後継者に指名されたのだが、兄である仁徳をさしおいて自分が即位するのは「長子相続」に反すると悩んでいたのだという。
 しかし、この話には明らかに不審な点がある。記紀の記述によれば、応神の死後、別の異母兄がそれに不満を持って出兵を企んでいるという話があり、仁徳はその情報を菟道稚郎子に告げた。すると菟道稚郎子は自ら変装してその異母兄を暗殺したのである。「長子相続」を尊重するというのなら、この人物こそが仁徳よりも年上であったのだ。そして、結局のところ菟道稚郎子の「自殺」によって仁徳が即位する結果となった。この「自殺」は実に陰謀のにおいがする。

 宇治はまた『源氏物語』の続編部分「宇治十帖」の舞台としても知られている。『源氏物語』といえば、戦前は「不敬文学」とされていた。というのも、光源氏が父親である天皇の后と密かに関係を持ち、二人の間にできた子が名目上は父親の子として、やがて天皇に即位するというエピソードがあるからである。(二千円札の裏に描かれた『源氏物語』の場面は、よりにもよって、源氏がこの息子と会っているところである。)
 しかし、因果は巡り、源氏の妻の一人である女三宮(源氏は彼女を魅力に欠ける女性と思ってないがしろにしていた)が、彼女を慕う若者と関係を結び、その二人の間にできた子を源氏は「我が子」として育てなければならなくなる。この子が「宇治十帖」の主人公「薫」である。

 幼少期からキリスト教による教育を受け、青年期にダーウィンの『進化論』と出会い、社会主義者になっていった山宣は、故郷に伝わるこれらの物語についてどのような評価をしていたのだろうか。

 平等院のそばに、あがた神社という小さな神社があり、そこにはニニギノミコトの妻である木花開耶姫(このはなさくやひめ)が祭られているということになっている。
 『山本宣治』(佐々木敏三著)によれば、山宣は、長男が通っている小学校の校長がこの神社に子どもたちを参拝させるという話を聞いて、本当の祭神は明らかではなく、天皇に取って代わろうとした弓削の道教が祭られているとも言われているから、そんなところに参拝に行くのはそれこそ「不敬」にあたると言って長男を説得し参拝に行かせなかったという。
 このことひとつをとってみても、山宣が地元の歴史に詳しく、皮肉やユーモアの技法を使いながら、学校教育における神社参拝を批判し、天皇制の万世一系の神話を笑い飛ばしていることがよくわかる。

 山宣を育んできた自然と歴史に思いをはせながら、私は宇治の地を夕刻になるまで巡り歩いた。

2009年3月1日
(鈴)


[参考資料]

山宣 西口克己著
  
山本宣治  佐々木 敏二著

映画 武器なき斗い

監督: 山本薩夫
出演: 下元勉, 渡辺美佐子ほか
1960年作
エースデュースよりDVD発売