GHQ言論統制下の抵抗運動「辻詩」
反戦・反核を訴えた詩画人・四國五郎の世界
  
「四國五郎展」
2019年4月26日→7月20日(土)
大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館

 「四國五郎」と聞いてすぐに反核反戦運動の詩画人と答えられる人はそれほど多くないだろう。大阪大学総合学術博物館で開催中の展覧会に、峠三吉「原爆詩集」の表紙絵・挿絵や絵本「おこりじぞう」の絵を描いた画家という程度の認識で行ってみた。展覧会は4部構成になっている。四國五郎(1924-2014)の心の変化や闘いの段階が見える構成である。

第1章 軍国青年を民主運動家に変えたシベリア抑留
 関東軍で肉弾攻撃の訓練を受けていた四國五郎は1945年8月18日中国琿春で捕虜になり、シベリア捕虜収容所の厳寒と飢えの中での強制労働、生死の境をさまよい1946年3月コーリン病院に入院する。そこで一命をとりとめ、病院勤務の中で壁新聞や文芸誌発行などの「民主運動」に出会った。1947年8月、帰国できるのにあえて帰国を1年も延期し、様々な活動を行っている。従軍中から書き続けた挿絵入りの記録を持って帰国したのは1948年11月である。
第1章に展示してある絵は1991年「墓参・鎮魂の旅」(「捕虜体験を記録する会」呼びかけ)に参加した後、抑留体験を振り返って描いている。俯瞰図のコーリン病院や仲間の死体を運ぶ自分を描く四國五郎といった絵もある。1990年代70歳を超えて、当事者である自分を客観視しながらやっと抑留体験を描けるようになったのだろうか。

第2章 辻詩(つじし)―GHQによる言論統制下の反戦・反核メッセージ
 1948年11月帰国し、四國は故郷広島で弟の被ばく死を知る。そして49年9月ごろ峠三吉に出会い「われらの詩の会」に加わった。1950年には、丸木伊里、赤松俊らとも出会っている。米ソ対立が激しさを増し、占領軍の圧力が強まる中、われら詩の会は、新聞紙大の紙に詩と絵の反戦・反核メッセージを描いて街頭に張り出す「辻詩」という抵抗運動に取り組んだ。官憲の目を盗んで張り出し、危なければ折りたたんで逃げる。辻詩の運動は1950年朝鮮戦争勃発前後、3度目の原爆投下が危惧された時期に盛んに展開され、峠三吉が亡くなる1953年3月まで続いた。辻詩は150枚から200枚制作されたが、多くははがした後に散逸し、摘発を逃れるために捨てたものもあったという。今回展示しているのは8枚、四國五郎の遺品にあり、この8枚が現存するすべてだそうである。辻詩は、作者の名を残す芸術作品とは異なるが、訴える力は強い。優れたメッセージ性を持ちながら画家、芸術家としてすぐに四國の名前が上らないのは、日本の美術界が未だに民衆のものになっていないことの証かもしれない。

第3章 反戦平和のために描く母子像
 1955年8月、第1回原水禁世界大会に呼応して、四國五郎は、柿手春三・下村仁一・増田勉らと共に広島平和美術展を創設し、事務局長を務める。そして反戦平和のメッセージをこめた生涯のテーマとなる多くの母子像を描き始める。広島の地から絵を通してベトナム戦争に反対し、仲間の雑誌や著書の表紙絵・挿絵など数多くを手掛けている。アン・シェリフさん(米オーパリン大学教授)は女子学生に「母子像をたくさん描くのは、女性を弱いものと見ているからではないか」という質問を受け、「母子は弱い立場に置かれているのであり、その立場で抵抗する姿を描いているのだ」と答えたという。確かに四國五郎の描く母子像からは力強さを感じる。この時期原爆による人体被害の凄惨な絵はほとんどない。四國五郎は直接被ばくしていないことに引け目のようなものを感じていたのではないかと言われている。

第4章 「市民の手で原爆の絵を」の活動と広島を描くこと
 1974年、広島の一人の被爆者が自ら描いた絵をNHKに持参した。この絵をきっかけに「市民の手で原爆の絵を」残そうという運動が始まり、この運動を呼びかける番組で絵の描き方を指導したのが四國だった。上手い下手ではない、見たままを描く、絵にできなければことばを添えたら良い、そして番組内で満州での体験を描いて手本を示した。四國の適切な呼びかけがあったことで、「市民の手で原爆の絵」運動は予想を超える広がりになった。そして、この活動を通じて、四國自身も被爆体験をしていないという引け目から解放され、絵本「おこりじぞう」や「ヒロシマのおとうさん」(広島平和記念資料館館長も務めた被爆者高橋昭博の半生)など原爆を題材にした絵に迷いなく取りかかれたようである。
 この章には「広島百橋」や「ひろしまのスケッチ」など広島の市民のために描いた広島の街と人の絵も展示されている。広島の市民の中で生き続けた四國五郎の世界を見ることができる。

2019年6月8日
リブ・イン・ピース☆9+25 静