平田オリザ作、青年団による演劇『ソウル市民』と『ソウル市民1919』を観た(11月、伊丹市のアイホール)。平田オリザさんはインタビューの中で「日本が植民地時代のことを文学・戯曲などで総括できていないことに対しての問題意識はずっとありました。…戦争モノにしろ植民地モノにしろ、悪い軍人や商人、政治家が出てきて、庶民が虐げられて、というような弱者の視点で描かれたものが非常に多いです。しかし『ソウル市民』では支配層の日常を描きました」と語っているのを知り、足を運んだのでした。この2本を観て、どのようなストーリーなのだろう、どのような起承転結があるのだろうという最初の期待感は、当日見事に裏切られました。しかもいい意味で気持ちよく裏切られたのでした。 『ソウル市民』の時代は1909年の夏、日本が韓国を植民地下におく「韓国併合」の前年。ソウル(当時の呼び名は漢城なのだが)で文具店を営む日本人の篠崎家の一日が誇張もなくありのまま描かれる。植民地という支配と被支配の対立とは一見無関係なゆるやかな時間と会話が流れていく中で「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされるのです。 3部作の第2部『ソウル市民1919』の時は1919年3月1日。今日も平凡な一日を過ごしている篠崎家の外は、何やら騒がしい。噂では朝鮮人たちが通りにあふれているというが、確認するのでもない。三・一独立運動のただ中で居間で唄い、笑い合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に描いています。ともに、日本の韓国併合前後のソウルに暮らす日本人一家を通して、植民地支配者側の無自覚の加害性を明晰確固と描き、現代口語演劇の出発点となった平田オリザの代表作です。 舞台真ん中には大きなテーブルと椅子が置かれ、そこである日の日常が切り取られる。比較的豊かな篠崎家はガチガチの軍国思想ではなく、むしろ開明的な考えの一家という設定。朝鮮の生活になじめない母、しゃべっているばかりでこれといった仕事もしない長男、内地から取り寄せた文芸雑誌『スバル』に夢中で鉄幹や啄木を愛する文学好きの長女、娘の結婚のことに口うるさい父であり店主、自分史を残すために家に住まわせている書生や出入りする取引先の人間、実は気の弱い偽力士といかさま興行師、篠崎家で働く日本人の女中たちと朝鮮人の女中たちなど、階級も出自も国も違う人間が登場し、彼らが交わす普段の会話や仕草を通して、市民の感覚から朝鮮半島における日本帝国主義支配の36年とは何だったのに迫る芝居でした。 「朝鮮語は文学には向かない」「朝鮮人は汚い」や三・一独立運動にも「なんで独立なの。お互い合意して日本になったのにおかしいじゃない」といった表現、日露戦争勝利で三国干渉への怒りの溜飲を下げる場面、日本に行った際に娘がそこで見た貧しい日本人が米俵を担いでいる姿から「だからもう日本には住みたくない」の台詞など、その頃の日本人の感覚――一等国になったのだから、植民地のひとつや二つ持って当たり前だという――が見事に表現されていた。その一方で、内地から来るはずだった娘の文通相手がいつまでたっても現れないこと、二人の朝鮮人の女中が居間に誰もいないときに朝鮮語で歌を唱和しそのまま一人は街頭へ独立運動に合流していったこと、また店舗の手形問題が起きたことを示唆するなど、旧世代ブルジョアジーの没落を描こうともしていたと感じました。また内地の農民の疲弊のみならず朝鮮と満州の植民地支配にかけざるをえない日本経済の行き詰まりもあちこちに忍ばせる展開でした。 平田オリザさんは「自己決定能力のある、自立した『市民』一人ひとりが植民地支配を選んだ。市民は決して、正しいことばかりをするのではない。その点において、今も変わっていないのではないか」と話しています。このメッセージが、大声で叫ぶのではなく日常のままを通して伝わってくる仕掛けに驚きました。人が人を支配するとは、どういうことなのかを考えさせられるものでした。 もう一つ、私が感じたことを付け加えておきます。それは、今の沖縄を巡る状況です。政権が沖縄の民意を意に介さず辺野古新基地建設工事を強行しようとしています。しかし本土の私たちの無関心と無理解がそれを許してしまっているのではないでしょうか。今こそ、今の沖縄の基地差別と主権侵害の過去と現在の理解を深め、本当の意味での自立した『市民』とならなければならないと意を強くしました。 2018年12月10日 |
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