映画『悪人』を観てから既に1ヶ月以上経ちますが、いまだに頭の中に居座っています。すっかりハマってしまいました。社会的意義のある映画はたくさんあるけれど、映画そのものから得た感動としては、自分の人生の中でNo.1でした。 原作は2006〜7年、朝日新聞夕刊に連載された吉田修一の小説です。全編を重い雰囲気が包む作品でした。「競争、競争」で人々がバラバラにされ、地方が疲弊し先が見えない、そういう「孤独と閉塞感」が覆う社会の中で生きる、若者たちの姿が描かれていました。 かつて親に捨てられ、祖父母とともに長崎で生活しながら、親戚が営む解体業で働く祐一。佐賀の紳士服店で働き、アパートと職場を往復するだけの単調な毎日を過ごす光代。言いようのない淋しさを抱えた2人が、そこから抜け出させてくれる相手にやっと巡り会えたと思ったら、その瞬間から逃避行に追い込まれます。祐一が罪を犯したのは事実だけれど、なぜこうなってしまうのか?との思いを禁じ得ません。「俺、光代と会うまでは生きとるか死んどるかもわからんかった‥‥」という祐一の言葉は、まともな仕事に就くこともできず、人間扱いされないような生活を強いられている、多くの若者に重なります。 このような社会的背景はそれはそれとして、いざ映画が始まると、2人の主人公がまるで実在の人物であるかのように感じられ、その世界に入り込んで観てしまいました。演出も俳優陣もすばらしく、中でも光代役の深津絵里! 妹の残したクリスマスケーキをアパートで1人食べる、どうしようもない淋しさ。勇気を振り絞って祐一に会ったのに、その気持ちを踏みにじられ(たと思い)自転車置き場でこぼす涙‥‥。最初から最後まで淋しさをたたえたその表情には、すっかり魅了されました。 ところで、原作を読み直して気づいたのですが、2人が出会い、愛し合うようになる過程に、映画では重要な変更が加えられています。ケーキも自転車置き場も、原作には登場しません。この変更は大成功。これによって2人の気持ちにぐっと説得力が増しました。 一方、視点を変えると、私たちは、祐一の人物像や犯罪の背景を知っているからこそ、共感や同情を覚えますが、全く知らない他人であったとしたらどうでしょう? おそらく、映画に出てくるワイドショーと同じように、非人間的な凶悪犯罪者としか見ないでしょう。ここに、この映画に隠された怖さがあります。 見終えた後、「感動した」で終わってもいいのですが、色々と考えてしまいました。「あの人は悪人なんですよね‥‥」という、光代の最後の言葉に込められた気持ちとか。この言葉もまた、映画と原作では違ったニュアンスに感じられます。原作はあまりに苦く、それに比べれば映画ではやや救われました。 李相日(リ・サンイル)監督は、『フラガール』(2006年・シネカノン)で有名です。在日コリアン3世で、小学校から高校まで横浜の朝鮮学校に通い、日本映画学校の卒業制作で朝鮮学校を舞台とした『青〜chong〜』が、ぴあフィルムフェスティバルで史上初の4部門を独占し、注目を集めました。『フラガール』と『悪人』、映画のトーンは全く違いますが、どちらにも「もがく人を描きたい」という監督の信条がよく表れています。 2010年11月1日 |