[投稿]韓国訪問日記
日本が朝鮮にあたえた傷の深さにたじろぐ
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昨年12月29日から1月3日まで姪っこと2人で韓国を旅行した。案内役は「地球の歩き方韓国」と「観光コースでない韓国」高文研だ。駆け足のような旅だったが、改めて日本が朝鮮にあたえた傷の深さにたじろぐことが多かった。手帳に書いたメモを日記としてかいてみた。2009年2月15日 リブ・イン・ピース・9+25会員 A.H.
韓国訪問日記
12月29日(月)
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李舜臣像 釜山 |
14時30分、大韓航空機で釜山に到着した。空港で、25日から済州島を旅していた姪っこと落ち合った。(姪っこは大阪で教員をしている。)路線バス、地下鉄を乗り継いで宿にいく。ホームスティということだが、何のことはない、1件のマンションの3部屋に3グループがそれぞれ宿泊するのだ。私達は2段ベッドだけがある小部屋に。荷物を置いてすぐ、日帝が聖域とした地、龍頭山公園に向かった。小高い山の上にのぼると、公園の入り口に李舜臣像が日本の方角をぐっとにらんで立っている。
秀吉の水軍を破った将軍で、全国に300はあるとされる像で皆、日本の方角を向いているそうだ。そっと頭を下げ、釜山タワーに上がった。そこからは釜山港と市街地が一望できる。右手の市街地は日帝が日本人街として造ったあとで小京都のように碁盤の目に造られている。日本人街の拡大のため影島に架けられた大橋は今もある。目をこらしていると、あたりが暗くなりたちまちオレンジ色のネオンに照らされた夜景にかわっていった。ふと、「釜山港へ帰れ」のメロディが頭をよぎった。
夕食のためチャガルチ市場に向かって歩く。ここの一階にある魚市場でひらめ、牡蠣、タコ、アワビなどを買い2階で調理してもらう。野菜、キムチなどを加えて頂いた。満腹でしあわせー。お風呂替わりに、「青山汗蒸プラザ」でよもぎサウナを体験。
宿に帰ると、同宿の若者達はまだ帰っていない。2段ベッドに分かれておやすみー。
12月30日(火)
朝、台所のテーブルに用意されている食パン、ジャム、バター、インスタントコーヒーで食事をし、8時頃出発した。地下鉄1日券を購入し、再び龍頭山公園方面へ。公園の山をぐるりと裏手にまわり、釜山近代歴史館をたずねた。この旧館は日帝が国策会社=殖民地支配の先兵として創った東洋拓殖株式会社釜山支店の建物であった。戦後、アメリカ総領事館等として使われてきたが住民の抵抗で1999年に韓国に返還され歴史館となっている。
訪問すると、係員の女性がこのあらましの映像を写してくれた。館内をまわると、日帝が1876年に釜山を開港させて以降の近代史=植民地支配の歴史が資料で展示されている。1945年以降は朝美時代とされる。人、土地、銀行、工業、農業のすべての分野でいかに収奪を極めたかが、当時の日本が作った日本語の統計資料、帳簿、新聞などの展示で示されている。館内の一角に、日本人街の一部を縮小して再現してあった。そこを歩いていると、5〜60歳の係員の人が来て、日本語でおだやかに説明してくれた。最後に“朝鮮は弱かったから仕方ない”とボソッとつぶやかれた。誰に向かって言われたのだろう、出かかった“カムサハムニダー”の言葉をぐっと呑み込んで頭を下げて辞した。受付で日本語の説明がないかたずねたると、無いとのこと。奥から日本語の小冊子をだしてくれたので購入し館をあとにした。
地下鉄、高速バスを乗り継いで晋州にむかった。晋州のバスターミナルから中央市場を通りぬけて晋州城跡に向かう。市場は鶴橋の市場を何倍か大きくした感じで、途中の小店で昼食にユッケビビンバを食べた。
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義岩 論介 |
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壬辰倭乱のレリーフ
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晋州城は前方は南江の大河、3方は峻厳で高い石垣が積み上げられている。朝鮮一の名城とか。1592年、秀吉の日本軍は2万の軍隊で包囲したが数千人の兵力に撃退された。翌年主力部隊12万以上を投入して陥落させたと。城門を入ると、武将、金時敏の像がたっていた。その奥に義兵達の塚が厳粛な雰囲気で建てられていた。城壁にそってゆっくり回っていったら、中ほどに国立晋州博物館があった。この館には、1592年から1598年までの7年におよぶ壬辰倭乱=秀吉の朝鮮出兵の説明・資料展示がしてあった。日本語のパンフがあった。題字に「壬辰倭乱。その隠された真実」とある。戦国大名を先頭に総勢16万の大軍が朝鮮全土に攻め入ったが、各所で熾烈な戦いを迫られたようだ。しかし、その分、残虐性をまし、多大な被害を与えたことを知りたじろぎ、驚く。
再び、城内を歩くと、記念碑があった。晋州城の攻防戦を銅版のレリーフにして展示してあった。論介という官妓が、勝利の酒に酔いつぶれた敵将を抱いて南江に飛び込んだという岩場もあった。今も人気の女性とか。
夕方になり、また中央市場をぬけてバスターミナルへ急いだ。市場で夕食にチジミ(?)4枚と大盛りのイチゴを買ってバスに乗り釜山へ。宿に着くと、彼等はまだ帰っていない。急いでシャワーをし、台所で夕食をたべた。明朝早いからと家主さんに挨拶をすませた。2段ベッドに別れおやすみー。
12月31日(水)
7時前に起き、置かれたパンとコーヒーなどで朝食をとる。荷物をまとめてバスターミナルへ向かう。8時40分発の光州行きの高速バスに間に合った。3時間くらいで着いた。本「地球の歩き方」で宿を探し、鉄道の光州駅の近くにある宿をめざしタクシーで10分。ピンク色の建物のモーテルだ。ツインのベッドが2つ入った部屋を交渉し、荷物を預けて出かけた。まず光州駅へ行き、翌日のソウル行きのKTXの切符を買った。それから駅前の食堂で昼食に石焼ビビンバを食べた。駅の案内所でもらったマップをみても反軍政の5・18記念館が分からない。店のお姉さんに尋ねたら、客のお爺さんに頼んでくれた。お爺さん達は少し日本語が話せるのだ(なぜ!=70歳以上位の人は植民地時代に日本語教育を強制された)。親切に話してくれたが、独立運動の記念館や碑があちこちにあり、結局、駅の案内所で聞くことになった。バス停を教えてもらい郊外の5・18記念公園に行った。記念館はまだ真新しく、広大な墓地には大きな記念碑が立ち、2〜300の新しい土まんじゅうのお墓があったが、まだ一部という状態だった。記念館に入ると、日本語の話せる係員を呼んでくれて、厳粛な気持ちで見てほしいとだけ言って案内のDVDをみせてくれた。その後、館内を歩いてまわった。5・18光州事件とは、1980年代に長い軍政に反対して立ち上がった光州の学生達とそれを支援した市民・義民の闘いのことである。軍政は光州を封鎖・兵糧攻めにし、外から空挺部隊を投入して虐殺・弾圧をして制圧した。当時の新聞などは、光州で暴動が起き軍隊に被害者がでたとのみ報道していたと。以後、立ち上がった人達は暴徒とされ沈黙を強いられてきた。1993年の民主化のはじまりで、やっと義挙として見直しがされてきたとのことだが、まだ3千とも4千とも言われる犠牲者の全容はわかっていないとのことだった。日々刻々と変わる闘争の映像と、残された遺品等をみて館をでた。墓参りのひとがちらほら見えた。墓地の横の建物には300人位の遺影が額縁に入れて安置されていた。南北分断と軍政は日本の植民地支配と無縁ではない。立ち上がった学生・市民・義民に敬意と哀悼の気持ちをもって、静かに手を合わせた。
夕方5時前。バスがなくタクシーにのる。途中、大きな韓国風の建物があり、国立光州博物館とのことで、降ろしてもらい立ち寄った。閉館まで1時間弱。古代の発掘物から高句麗の青磁、李朝の白磁まで多くの品が展示されていた。何か衝撃のようなものが残ったままだったため、暗く寒かったがそこから宿まで1時間ほど黙々と歩いて帰った。モーテル(ラブホテル??)の部屋はダブルベットが1つとツインが1つで広くてキレイだった。お風呂も広くキレイ。夕食は近くの食堂でテジ・カルビの焼肉を食べた。部屋に帰り、チョッとテレビを見、ネットで日本のニュースをみた。新年をこのホテルでかー・・と思うまもなくダウンしてしまった。
1月1日(木)
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タブコル公園 |
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タブコル公園レリーフ |
朝起きると晴れてはいたが一面の雪景色。駅まで用心して歩き、駅前の同じ食堂で韓国風朝食をたべた。帰り、調理をしていたおばさん(オモニという感じ)が、肩に手を置いて送ってくれた。10時40分のKTXに乗ってソウルに向かう。雪景色は途中までで、ソウルは冷たく乾いて澄み渡った空気だった。駅から地下鉄に乗り変え、宿のある恵化へ。目印をたよりに「フレンドシップハウス」という民宿にたどり着く。昔、両班が住んでいたという旧い韓式住宅(韓屋)だ。荷物を置いて、ソウル市中心部にもどる。屋台でトッポギを買って、タプゴル公園に行く。3・1独立万歳運動の始まった場所である。まず、座り込んで熱々で辛いトッポギをたべた。遅い昼食だ。それから、独立宣言を読んだ指導者の銅像、宣言記念碑、全国各地の3・1運動の銅版のレリーフをみてまわった。どのレリーフにも日本軍が弾圧に向かう姿が描かれている。「本」によると、ソウルから1時間くらいの所に大きな独立記念館があるが、これだけでも重い気持ちになる。
それから、光化門の方に歩いていく。日帝は光化門のところに旧総督府を建てたが、1995年解放50周年を記して取り壊された。現在は光化門を元に移動させる工事中だった。
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李舜臣像 ソウル |
世宗路という大通りを進んでいくと、ここにも李舜臣像が日本を睨んでいた。どんどん歩いて、市庁舎前へ。ハルモ二達はここで水曜デモをと思ってたたずんだが、あとで、日本領事館前であったことを思い出す。又どんどん歩き、新世界百貨店、韓国銀行の博物館、東京駅に似せたソウル駅など日帝がのこした建物をみてまわった。日帝が造った明治村が由来という明洞の繁華街に出て、地下鉄に乗り恵化にもどった。ここで韓式の料理店で夕食をとった。宿は6畳くらいの部屋で薄い布団があるだけ。オンドルで暖かい。ドアの音に聞き耳をたて、空いているか見計らってシャワーをし、おやすみー。
1月2日(金)
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高麗城址・北門 |
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芝草鎮の松 |
8時に宿の居間に集合。朝食をいただく。そこには宿のハルモ二、日本人の女性1人、台湾のカップル、介護の職場に疲れて短期留学をしている日本の若者が1人いた。久しぶりに会話が出来たが後の人のために早々に引き上げた。地下鉄でバスターミナルへ。バスは漢江を渡り、江華島へ着く。バス停の案内所で道を尋ね、歩いて高麗宮跡へ行った。北門から城壁がつづく山道は中高年のハイキング道だ。そこで元教師で卓球のナショナルチームの監督をしていたというおじさん(?)に出会う。愛ちゃんと試合もしたそうだ。英語が少し解るとのことで“フォローミイ”といわれる。一緒に山頂まで歩く。そこからは、漢江とイムジン江が見えた。向かいの山を指差して、木の無い山々は北朝鮮だという。泳ぐ格好をして、近いところでは2キロしか離れていないと。帰り、尾根道を歩きながら、ハングル語で話をしてくれ、段々テンションが高くなった。私が“何か怒ってるの?”と相棒にきくと、“全然わからん、人の名前が出てくるから私らに歴史を教えてくれているんやと思う”という。そのうち急勾配になって山を下り、北門にもどった。カムサハム二ダー、アンニョンと言って別れたが、何をいわれたのかさっぱりわからない。
またバス亭に戻り、バスで南に向かう。バスの中で昼食。韓国風まき寿司とおやつのホットック。
伝灯寺付近でバスをおりた。伝灯寺は韓国発祥の檀君神話がある寺で、人も多かった。ここはまた近代にフランス軍を撃退したところとあった。
バスに乗れず、タクシーで草芝鎮台へ行く。江華島には4つの鎮台が残っているが草芝鎮台は南端にあり、外敵からソウルを守る第一関門だったそうだ。フランス軍を撃退した後、米軍に進撃されたが、米軍はひきあげた。その後、日本軍に襲撃され、制圧された。ここで江華条約が強いられ、日本の植民地支配の発端となった。係員の人が日本軍の砲弾の後が残る木を教えてくれた。
バスがなく、ついつい2キロ先の第2鎮台まで歩いてしまう。薄暗くなってきて、タクシーも通らず、しまったーと。仕方なく近くの民家のおばさんに身振りでタクシーを呼んでくれるよう頼んだ。通じてタクシーでバス停まで帰ることができた。本当にありがとうございました。
バス・地下鉄を乗り継ぎ、恵化へかえる。恵化は大学街とかで若者がいっぱいだ。食堂で豆腐チゲの定食を食べ、宿に帰る。明朝、早いからと、家主さんに挨拶し、荷物をまとめておやすみー。
1月3日(土)
5時に起き、リュックなど荷物をもってリムジンバス乗り場へ。まだ真っ暗だが、通りは若者や、掃除の人が動きだしている。仁川空港に。華やかな空港に着いて、旅行中ずっと着たきりすずめであることを思い出した。9時15分の大韓航空機にのり関空へ向かう。
相棒が、“戦争と女性の人権博物館ができたら又来ような”というから、できたらって、まだこれからだよと心の中で思いながら“うん”とだけ答えた。
(写真は、日付の設定ミスですべて2008/03/28になっていますが間違いです。あしからず)
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