押しつけ憲法論批判

岩本 勲

 安倍首相は年初より、7月参院選挙(あるいは衆参同日選挙)の争点として、憲法改定を前面に押し出してきた。すでに衆院では改憲派の議席数が3分の2を超えている現在、今回の国政選挙における改憲派議席が両院ともに3分の2を超える否かは、日本国憲法に基づく戦後政治を根本的に転換させるか否かの分岐点となる。この意味で、憲法公布70周年の今年、平和と民主主義にとって戦後最大の政治的危機の時を迎えている、といえる。
 首相は年初より改憲着手を強調し、その理由として、憲法制定時は占領下で日本政府はGHQには逆らえなかった、極めて短期間で作られた等、持論の「押しつけ憲法論」を繰り返した(衆院予算委員会)。しかも、第9条2項に関しては、憲法学者の7割が自衛隊違憲論だから、これでは「立憲主義」に反するので、憲法を現実に即して変えよう、と「立憲主義」を逆手にとって、本末転倒の論理を臆面もなく述べた。
 安倍首相はこれまでは、反対論の強い第9条2項改定を一旦後方に退け、その迂回路として、国会の改憲発議定数(第96条)の緩和や非常事態条項の設置などを提案していたが、今回はずばり本命の第9条2項の改憲を掲げて正面突破の勢いを示したのである。ただし、参院選を控えて自公の党サイドからは、この正面突破論に危惧を表明する意見も強く、安倍首相は自民党大会(3月13日)では、憲法問題には言及しないというマヌーバーを決め込んだ。だが、これはあくまで選挙対策にすぎず、もし、参院選で与党が3分の2以上をとれば、直ちに改憲に取り掛かることは、明々白々たる事実である。
 しかも、「押しつけ憲法論」は今や、自民党の専売特許ではなくなった。これまで護憲派と見られていた論者のなかからも、「護憲的改憲論」や「左折の改憲論」と称して、第9条2項改定を正面に掲げて、その根本的な論拠として、この「押しつけ憲法論」を持ち出すことが顕著となってきた。
 憲法はなるほど、占領下で短期間のうちに作成されたGHQ原案を基礎にして制定されたものであるだけに、複雑な憲法制定過程を詳しく知らされていない人々にとっては、「押しつけ論」は単純で分かり易く、これに共感する人々も少なくはない。したがって、今後の憲法闘争の理論的根底として、「押しつけ憲法論」を事実に即して打ち砕いておくことが喫緊の課題となっている。
 加えて、この憲法制定過程の解明には、アジア太平洋戦争と戦後日本政治をいかに把握すべきか、という根本問題が含まれているのでもある。だからこそ、改憲派も「左折改憲派」も、総じて「歴史修正主義者」たちは、改憲論の根本的理念として、「押しつけ憲法論」を前面に押し出してきているのである。

日本国憲法制定経過の概略
 敗戦した日本政府は、ポツダム宣言受諾により、その諸条件の実現のためには、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正が不可欠となった。マッカーサーGHQ(General Headquarter、連合軍最高司令部)総司令官は当初、憲法改正を日本政府自身に任せようとしたが、出来上がった日本政府案はまるで明治憲法の焼き直しに過ぎなかった。これでは連合国側の了承を得られる可能性は全くなく、日本統治にイニシャティブを握りたいGHQは、日本国憲法制定問題に最高権限を持つ連合国の「極東委員会」開催以前に改憲原案を作成する必要があった。それには次のような事情があった。
 GHQとっては、スムーズに日本国統治をおこなうこと、および共産主義革命を防止することが至上命令であり、このためには天皇制の存置が不可欠であった。ところが、極東委員会には、天皇制廃止論の急先鋒のオーストラリアやニュージランド、天皇制批判のソ連や中華民国などの国々を含まれていたので、これらの国々に天皇制存置を納得させるためには、明治以来のすべての侵略戦争のシンボルであった天皇制を存置する交換条件として、日本に再び戦争をさせないという保障、つまり第9条2項による徹底的な日本の武装解除が必要であった。同時に、日本の非武装化はGHQにとって、日本を再びアメリカの帝国主義ライバルとして復活させないためにも不可欠であった。
 一方、幣原喜重郎内閣は当初、日本が敗北した歴史的意味も国際情勢にも全く理解しようとはせず、「親の心、子知らず」で、GHQ案に断固反対した。だが、GHQがその改憲原案を拒否すれば天皇制が維持できない旨を告げて受諾を恫喝するや、日本政府は一転、掌を返すがごとく、GHQと二人三脚を組んで極東委員会に対抗し、GHQ原案を支持するに至ったのである。
 しかも日本政府は、自らにとって不都合なGHQ原案の数個所は密かに修正し、それを含めて、114日間の長期の国会審議の過程で、いくつかの条項の修正・付加が行われた。その結果、自由・進歩の保守2党はもとより、野党の社会党ともども全面的に賛成し憲法が成立した。ただし、共産党は第9条が自衛権を否定するものである等の理由によって批判的立場をとった。日本国憲法の制定は、法律手続きとしては、極東委員会が勧告した国民投票こそ行われなかったが、大日本帝国憲法(第73条)に基づく改正であったという限りでは「合憲的」であった。しかも、極東委員会が、改憲原案の国会審議終了後、改めて改憲原案の再検討の機会を与えることを提案したが、吉田茂内閣はこれを拒否した。この結果、いわゆる「自主憲法」作成の機会をつぶしてしまったのは、他ならぬ自民党の前身の自由党内閣であった。

「ポツダム宣言」受諾とアメリカの初期対日占領方針
(A)ポツダム宣言・対日占領方針の基本性格
 アジア太平洋戦争は、日本ファシズムによる満州事変以来の中国侵略戦争、米・英・仏・豪・NZとの帝国主義戦争、アジア諸国民に対する植民地侵略戦争、ソ連との対社会主義戦争、以上の4要素から成る複合的な性格を持っていた。同時に、日本ファシズムの敗北を、第二次世界戦争全体の関連の中に位置づければ、それは反ファシズム連合国とその人民とに対する日独伊ファシスト枢軸国の世界史的敗北の主要環の一つであった。
 日本ファシズムの敗北は通常、「ポツダム宣言」(米・英・中の三カ国宣言、後にソ連も対日参戦を機に参加)受諾によって無条件降伏と謳われているが、実は、いわゆる無条件降伏ではなく、「ポツダム宣言」の諸条項遵守と国体護持の日本側申し入れに対するアメリカ側の回答とを条件とする、「条件付き敗北」であった。つまり、同宣言には、「軍国主義勢力の駆逐・世界征服の挙に出る過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力の永久除去・日本軍の武装解除・民主主義傾向の復活強化・戦争犯罪人の処罰・基本的人権の尊重・これら条件が達成されるまでの連合国の対日占領」、等々が明記されていた。
 天皇の地位については、同宣言には明記されず、したがって、天皇と日本政府は紆余曲折を経ながら「ポツダム宣言」受諾条件として、国体護持=天皇制維持の1条件を申し入れ、アメリカ側から次の2点の回答を得た。
(@)占領中の日本の国家権力は連合軍最高司令官に従属する(shall be subject to)。
(A)最終的な日本国の政府の形態は日本国民が自由に表明する意思に基づく。
 天皇と政府はこれらの諸条件を前提として「ポツダム宣言」受諾を決定したのである。 その結果、日本国の一切の国家権力は、この宣言に基づいて連合国最高司令官に委ねられた(「降伏文書」1945.9.2)。その最高司令官はマッカーサーであり、したがって、連合国の対日占領は事実上、アメリカによる単独占領に等しかった。
そのアメリカ政府の「降伏後ニオケル米国ノ初期対日方針」(1945.9.22)は、次の2項を占領の究極目的として明記した。
(@)「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及ビ安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」
(A)国連憲章の理想と原則に従った平和政府の樹立、民主主義的自治政府の樹立の希望、但し政府形態を強要せず。
 つまり、この対日占領方針は、第一に日本帝国主義が再びアメリカの帝国主義競争者とならないこと、次で第二次世界大戦の共通の大義であるファシズムを撲滅することを内容としている。この前者を優位とする二重の基本的見地は、GHQの日本国憲法原案を検討する場合でも最も重要な視点となる。

(B)民主化政策
 マッカーサーは陸軍参謀長時代、退役軍人の恩給前払い運動を共産主義者の扇動によるものとして厳しく弾圧したごとく(1932年)、根っからの反共主義者で民主主義のひとかけらもない人物ではあった。ただし、彼は日本占領当初は、上の本国の方針に従って次のような指令を矢継ぎ早に発した。人権指令(1945.10.4)<思想・信教・集会・言論の自由を禁止する一切の法令廃止、10月10日までに政治犯の即時釈放(共産党員を含む約3000人)、特高など全秘密警察の解散>。これに対して、敗戦処理内閣であった東久邇宮内閣は、これらの指令に抵抗して辞職した。
 GHQは、次期内閣の幣原喜重郎首相に矢継ぎ早に以下の指令を発した。
(@)五大改革指令(1945.10.11)<婦人選挙権実施・労働組合の結成の奨励・学校教育の自由・思想検察の廃止と人民を圧制から守る司法制度の確立・独占的産業支配の廃止による経済機構の民主化>
(A)神道指令(1945.12.15)<宗教と国家の分離、神道に対する公的援助の禁止、国公立学校における神道教育の禁止>
(B)公職追放令(1946.1.4)<戦争に協力した公務員・政治家の公職からの追放>

(C)天皇の「人間宣言」と民主化政策の実態
 GHQは天皇制に関しては、この時点ではまだ直接的な指令を出していなかったが、裕仁天皇は翌年2月1日、マッカ−サーの意向に基づいて、自らの神格性(現人神)を否定するいわゆる「人間宣言」(正式名称は「新日本建設に関する詔書」)を公表した。ただし、これは率直に天皇が現人神にあらずと宣言したものではない。まずは明治天皇の「五箇条の御誓文」を掲げてその功績を讃えた後、あたかも付録的に「天皇ヲ以テ現人神(アキツミカド)」とするのは「架空ナル概念」であるとするものであった。この「五箇条の御誓文」を主テーマとすることは裕仁天皇の意向であった。天皇の政治的したたかさは占領過程で随所に垣間見せているが、ここにもそれが示されているといえる。
 もとより、GHQは占領当初より、文字通りの民主化政策を実施したわけではなかった。GHQは労働組合結成を推奨する一方で、軍事力の恫喝の下で1947年2月1日のゼネストを禁圧し、同時に言論の自由に対しては、占領軍批判を一切封ずるためのプレス・コード等による言論出版の事前検閲を行った。さらに米ソ冷戦激化に際しては日本を「反共の砦」とすること、朝鮮戦争に際しては警察予備隊の設置=再軍備を命じ、自ら第9条2項を蹂躙するに至った。
 これらの諸事実は、第9条制定と一連の民主化政策、天皇の「人間宣言」などの本質が、文字通りの日本国家の民主化・平和国家建設ではなく、これらを手段として、アメリカの帝国主義ライバルとしての天皇制国家権力の弱体化と日本の軍事力の根絶をめざしたことを明確にするものであった。
 ただし、ここで重要なことは、GHQの主観的意図とは別に、これらの平和・民主化諸政策が、日本人民自身だけでは到底なしえなかった平和・民主主義国家の実現に向けて果たした歴史的役割は極めて重要であった。これらの歴史的意義を本当に日本に定着させ機能させることができるか否かは、いつに日本人民の闘争如何にかかっていたのである。

マッカーサーの最初の改憲方針と民間の改憲諸案
 このような一連の平和・民主化政策は明らかに明治憲法と根本的には相いれない内容であり、明治憲法改正は不可避であった。

(A)マッカーサーの最初の構想―日本政府による改憲案の作成
 日本政府の「ポツダム宣言」受諾に関するアメリカ側の回答及びアメリカ本国の「初期対日方針」にも示されているごとく、日本の政府形態は日本人民の自由意思に基づくことを原則としていた。したがって、マッカーサーは最初、憲法改正の必要性を示唆したが、改憲案作成は日本政府に委ねる方針であった。
 一方、裕仁天皇は降伏文書調印(1945.9.2)の3週間もたたないうちの9月21日、内大臣に対して、憲法改正問題の調査を命じた。この一例の中にも、裕仁天皇の機を見て敏なるなる、例の政治的したたかさが改めて示されている。続いて、第2回天皇・マッカーサー会見(10月4日)において、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性をはっきりと述べた(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』)。そこで、未だ明治憲法に基づく主権者であった天皇は、東久邇宮内閣・副総理格として近衛文麿に憲法改正案作成を命じ、同内閣辞任後の幣原内閣の時期には、近衛を内大臣府(内閣ではなく天皇の直属機関)御用掛として、改憲草案作成に当たらせた。これを補佐したのが憲法学者・佐々木惣一であった。但し、その改正憲法案は明治憲法の焼き直しにすぎなかった。
 幣原内閣では、これと並行して、松本蒸治国務相を長とする憲法問題調査委員会が国民には秘密裡に、改憲草案の作成を開始した。憲法問題調査委員会は甲・乙両案を作成したが、両案ともに天皇主権を基本とし、明治憲法の基本的枠組みを前提とすることには変わりはなかった。これらの近衛・松本2案が競合したが、近衛案が内閣ではなく天皇直属機関によって作成されていること、及び近衛は戦犯容疑者に該当すること、などに対してアメリカ国内や、日本でも幣原内閣の内部およびマスコミにおいて批判が高まり、マッカーサーは近衛の改憲作業を支持せずとして、これを葬った。いずれにせよ、繰り返して言えば、マッカーサーの最初の改憲計画では、まずは日本側に改憲案の作成を委ねるということであった。

(B)民間の改憲諸案
 民間でも、知識人、政党、マスコミの間で憲法改正の機運が生じた。日本共産党「新憲法の骨子」(1945.11.11)、高野岩三郎・鈴木安蔵らの憲法研究会「憲法草案要綱」(1945.12.26)、高野岩三郎「改正憲法私案要綱」(1945.12.10、公表は翌年2月)等が公表された。これら諸案はいずれも国民主権を基本としているが、共産党案には天皇についての言及はなく、憲法研究会案は天皇を国家的儀礼を司る機関とし、高野案は天皇制廃止・大統領制を提唱した。日本社会党「新憲法要綱」(1946.2.23)は、主権は国家(天皇を含む国民共同体)にありとし、統治権は君民分割とする全くの天皇主権と国民主権との折衷案であった。
 保守諸党では、鳩山一郎、吉田茂らをリーダーとする自由党の「憲法改正要綱」(1946.1.21)は天皇主権を掲げ、大日本帝国憲法と基本的内は変わりはなかった。最も保守的な日本進歩党の「憲法改正問題」(1946.2.14)は共和制反対・国体護持を標榜した。
 新聞紙上でも1945年10月ころより、改憲問題が論じられるようになっていた。「朝日新聞」(1945.10.13)は近衛改革案を報じ、改憲の重要性を主張しているが、天皇主権問題には触れていない。「毎日新聞」社説(1945.10.13)は幣原内閣の線にそって明治憲法で十分としている。「読売報知新聞」(1945.10.14)は、やや議会や臣民の権利義務の拡大に積極的ではあったが、「万民一君制」を唱えた。
 天皇制に関しては、日本の国内世論も圧倒的に天皇制支持であった(支持95%、不支持5%、1945年12月、竹前栄治「象徴天皇制への軌跡」(『中央公論』1975年3月号)。
 近衛案、松本案、保守2党の憲法改正案、主要新聞の論調等は、ニュアンスの差はあるが、いずれにしても日本ファシズムが敗北した世界史的意味も、GHQによる民主化政策の意義も全く理解しないことを、特徴としていた。
 このような状況の中で、松本案(甲)が1946年2月1日、「毎日新聞」によってスクープされた。この旧態依然たる松本案に対しては、日本国内世論はもちろん、GHQも驚きを禁じえなかった。だが、このような案では同月26日に予定されている、第1回「極東委員会」(FEC=Far East Commission)の同意を得ることは、とうてい不可能であった。
 実は、日本の憲法問題の最高決定機関は建前上、FECであったのだ。FECは1945年12月、米英ソの3か国外相会議で日本管理のための最高機関として設置され、その構成国はこれら3か国に加えて、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドの合計11か国(1949年にはビルマとパキスタンが参加)であった。同委員会は日本の新憲法草案の最終採決には委員会の承認が必要であることを決議した。この構成国から分かるとおり、中華民国、オーストラリア、ニュージランド、フィリピン、オランダ(植民地インドネシアの宗主国)などは日本軍にさんざんに痛めつけられた国々であり、ソ連は天皇制に批判的な国であった。したがって、もし松本案が日本政府改憲草案として提示されたならば、それはFECに否決され、改憲草案の主導権はFECに移ることは火を見るより明らかであった。一方、反共主義者のマッカーサーは日本統治に関して、共産主義ソ連が参加するようなFECの容喙をできる限り防ぎ、自らのイニシャティブの下にこれを行う強い意志を持っていた。
 同時に日本国内では、1945年の10月以降、復員軍人の大量失業、ハイパーインフレ、食糧危機等が重なり、労働運動が燎原の火のごとく燃え上がっていた。各地で労働組合が結成され、早くも「読売新聞社」では、共産党や社会党の応援を得て、生産管理を含む大争議が開始された。翌年5月には大規模な食糧メーデーが実施されるに至ったのである。このような嵐のごとき人民運動の高揚もまた、マッカーサーの憲法制定のイニシャティブを脅かす恐れが濃厚であった。

マッカーサーの「改憲三原則」と天皇制
 マッカーサーは、このような差し迫った状況の下では、もはや日本政府に改憲草案作成を委ねる余裕はなかった。したがって、彼はFECの第1回会合までに、FECも承認し得る草案を、表向きはGHQではなく日本国政府の草案として作成すること、同時に日本国民も納得しうる原案の作成を急いだのだ。そこで、マッカーサーは、日本政府による改憲原案作成方針を転換し急遽2月3日、以下の改憲三原則を示し、GHQ自身が改憲原案を作成することにした。
(@)天皇の地位は、国の最上位(at the head of the state)。皇位継承は世襲。天皇の職務・権能は憲法の規定による。
(A)国権の発動たる戦争は廃止。国際紛争解決及び自衛の手段としての戦争の放棄。日本は、今や世界の心を動かしつつある、より崇高な理想に依拠して自衛を図る。陸・海・空軍の保有を禁止し、交戦権もこれを廃止する(下線は筆者)。
(B)封建制度の撤廃。貴族の権利は、皇族の場合を除き、当該現存者一代に限り容認。華族の特権は、政治権力をともなわず。
 この3原則の最初に掲げられた天皇制存続問題は、「ポツダム宣言」の作成はもとより、日本占領統治に関して最大の問題であり、日本側にとっても宣言受諾条件を巡る中心問題であった。これらの意味でこの問題は、日米両国間の最大の懸案事項であった。アメリカ政府内部では、天皇制の存続を巡って意見の鋭い対立があり(たとえばバーンズ国務長官は廃止論、スティムソン陸軍長官は存続論)、さらに「ポツダム宣言」に天皇制廃止を明記した場合、日本が「本土決戦」を呼号して徹底抗戦をする恐れがあったため、同宣言には天皇制の問題については明記されなかったのである。
 一方、日本国内では、「ポツダム宣言」が発せられた1945年7月26日の2日後、鈴木首相はこれを黙殺することとした。なぜなら、7月にソ連に対米講和の仲介を依頼していた天皇と政府は、同宣言にはソ連の署名がないことに着目し、同国に一縷の望みを託していたからである。原爆が8月6日、広島に投下されされても、この事情は変わらなかった。だが、ソ連が8月9日未明、米・英・ソのヤルタ対日秘密協定(1945年2月)に基づいて、満州国境を越えて侵攻を開始した。天皇と政府は思いもよらぬ事態に驚愕した。支配者階級にとっては、まさに「全く寝耳に水」(近衛文麿)であった。彼らの最後の頼みの綱は切れたのだ。天皇と政府は急遽、「ポツダム宣言」受諾可否を決定する最高戦争指導会議(天皇・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長・陸軍大臣・海軍大臣・首相・外相)を同日に開催した。
 最高戦争指導会議では、この日の午前11時2分、原爆が長崎に落とされたにも拘わらず、このことなどは全く話題にも上らず、もっぱら同宣言受諾によって国体が護持されるのか否かの一点をめぐって議論が著しく紛糾し、漸く翌10日未明、国体護持の1条件で同宣言の受諾を決定するに至った。この条件をアメリカ側に打診したところ、回答は、上に示した通りであった。中華民国とソ連とはこの条件づけに反対したが、アメリカはそれには従わなかった。そこで「終戦の詔書」(「敗戦の詔書」ではない)は「国体は護持」されたとして、「ポツダム宣言」受諾が8月15日正午、国民に公表されたのである。

極東国際軍事裁判と天皇制問題
(A)天皇訴追をめぐる攻防
 憲法改正問題として並行して生じていた大問題は、極東国際軍事裁判(東京裁判)で天皇を訴追すべきか否かの問題であった。FEC参加国はそれぞれ、東京裁判に裁判官を派遣していた。上にも述べたように、特にオーストラリア、ニュージランドは天皇制廃止論で、天皇訴追すべきとの強硬な主張を行っていた。そこで、アメリカ本国政府はマッカーサーに対して、天皇の処遇に関する打診を行った。本国政府の基本的態度は「裕仁は戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰は免れない」ということであったが、しかし、これはマッカーサーの日本管理に重大な影響を及ぼすので、天皇訴追のための証拠を集めてほしい、としたのである(1945.11.29)。これに対するマッカーサーの返信は、天皇が日本帝国の政治上の決定に関与した証拠はなく、もし天皇が居なければ占領軍は「最小限に見ても恐らく100万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならないであろう」(1946.1.25)と答えた。その後の占領期間中=冷戦期間中にも明らかになるのであるが、マッカーサーと天皇とは反共主義という点では、ぴったりと息があったのである。
 東京裁判の訴訟手続きである「極東国際軍事裁判所規定」の作成は、連合軍最高司令官としてのマッカーサーの権限であった。この規定は、「国際軍事裁判所規定」(ニュルンベルグ裁判所規定)を基本的に踏襲しているが、但し、1点だけ重要な違いがあった。それは、「ニュルンベルグ裁判所規定」が被告人の公的地位に関して、国家元首であると否とに拘わらず、被告の対象となることを明記(第7条)していたが、それとは対照的に、「極東国際軍事裁判所規定」がその項を欠落させていることである。それは、マッカーサーが占領当初から天皇制維持を決意していたことを意味するものであった。
 このことは東京裁判の過程でも、極めて明瞭であった。マッカーサーの意を受けたキーナン検事長(アメリカ)は、東条英樹被告が天皇の忠臣として戦争は天皇の命に従て行ったのであるという主張を頑として曲げようとしなかったので、それでは天皇に戦争責任が課せられると説得し、東条も結局はそれを受け入れ、すべての戦争責任は一部の軍人・政治家に転化されることとなった。
 東京裁判は、改憲論者も「左折改憲論者」も、おしなべて歴史修正主義者たちが共通して目の敵とするところである。渡部昇一は安倍談話(2015年8月)について、「東京裁判史観」を克服したと絶賛し、稲田明美・自民党政調会長は東京裁判の検証を主張してやまず、加藤典洋もまた、「東京裁判茶番劇論」の代表格である。
 歴史修正主義者たちの主たる論点は、東京裁判が戦勝者の裁判であったこと、及び罪刑法定主義に反する事後法に依る裁判であったこと、等である。だが、大日本帝国政府自身が歴史的にはすでに、「勝者の裁判」も「事後法」も承認していたのである。ヴェルサイユ講和条約(1919年)において、戦勝国のみの裁判官、事後法、元首の訴追、という国際裁判が行われ、日本政府はこれを承認していた。つまり、日本政府はヴェルサイユ条約第227条(「同盟及連合国ハ、国際道義ニ反シ条約ノ神聖ヲ?シタル重大ナ犯行ニ付、前独逸皇帝『ホーヘンツォルレン』家のウイルフェルム二世ヲ訴追スル」)を批准し、裁判官(日・米・英・仏・伊)のうち1名を派遣していたのである。
 しかも、裕仁天皇はマッカーサー離任に際して(1951年4月)、「戦争裁判(東京裁判)に対して貴司令官が執られた態度に付この機会に謝意を表したいと思います」(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』)と謝辞を述べた。つまり、天皇は、A級戦犯7名が処刑された東京裁判についても、天皇の免訴に尽力してくれたことについても、マッカーサーに対して深甚なる感謝の念を抱いていたのである。改めて言えば、天皇とマッカーサーとは、対米戦争の最高責任を東条英樹に転嫁することによって、天皇の訴追を回避したのだ。この意味に限れば、東京裁判はマッカーサーと天皇との阿吽の呼吸の下にあったともいえた。

(B)天皇制存続と第9条
 天皇制を存続させた場合、直ちに問題となるのは、戦前の侵略戦争の元凶が天皇であると考え、天皇制廃止を要求する国々の世論やマッカーサーの本国内での天皇制廃止世論(*)等の根強い存在である。これらの世論を納得させるためには、日本が再び軍主義国家にならないことを保障する憲法上の規定が必要であった。そこで浮上してきたのが、日本の軍備全廃と交戦権の禁止という案であった。
 (*)処刑33%、裁判所の決定17%、終身禁固11%、流刑9%、その他(天皇の処遇に関するAIPO世論調査、1945年夏。上掲、竹前栄治「象徴天皇制への軌跡」)。
 この日本の非武装化は、先に示した如く、アメリカにとって日本が再びアメリカの帝国主義的競争相手となることを防ぐ意味でも極めて重要であった。この規定が幣原の発案かそれともマッカーサーの発案かで、歴史的見解が分かれているが、発案者が誰にせよ、ことの本質から考えてマッカーサーの本心であったことは変わりがなかった。
 この規定によって、アメリカ軍の行動はいささかも制約される恐れもなかったからだ。その後の経過が示す通り、米軍は日本独立後も、「サンフランシスコ講和条約」によって沖縄の占領体制を続行し、新旧「日米安全保障条約」によって日本国内の米軍基地も自由に使うことが出来たのである。
 また、冷戦が急速に激化し始めた1948年には、アメリカは日本を「反共の砦」とする方針を明示し(「ロイヤル陸軍長官演説」1948.1.6)、1950年の朝鮮戦争勃発と共に吉田政府に警察予備隊創設=再軍備を命じ、初期の日本非武装化方針を覆したのである。

法律のエキスパートによる草案作成
 安倍首相も繰り返ししているデマゴギーの一つは、改憲草案が「左翼」がかった法律の素人である25人の軍人によって促成栽培的に作成されたものである、ということである。だが、日本国憲法前文を検討するだけでも明らかなとおり、そこでは王権神授説を否定するJ.ロックの信託説に基づく主権論が展開されており、この一節を取り上げただけでも、改憲草案がヨーロッパ憲法や政治学説に通暁した専門家たちの所産であることが直ちに判明する。実際、この改憲草案作成を主導したのは法律のエキスパートたちであり、法律家以外でも、関係諸部門に精通し博士号を有する担当者も存在した。極めて煩瑣ではあるが、根強いデマを払拭するために、敢えて代表的な担当者の経歴の一端を示せば次のごとくである。
 改憲草案を担当した民政局(この訳語は例のごとく言葉のごまかし。Government Sectionは文字通りに訳せば政治局か統治局)局長ホイットニー准将はジョージワシントン大卒・法学博士・弁護士。全体を統括する運営委員会のメンバーは、ケーディス陸軍大佐(ハーヴァード大ロー・スクール卒・弁護士)、ハッシー海軍中佐(ハーヴァード大卒・スタンフォード大ロークール卒・弁護士)、ラウエル陸軍中佐(スタンフォード大卒・同ロースクール卒・弁護士)。これらのメンバー3名は40歳代前半で、ニュー・ディール時代の自由主義的な雰囲気の中で青年期を送ったのが特徴であった。立法部担当のF.E.フェイズ陸軍中佐(ネブラスカ大学卒・ジョージタウン大ロースクール卒・弁護士・上院立法局補佐官)、G.J.スウォープ海軍中佐(コロンビア大学卒・行政立法係長)、行政担当のC.H.ピーク(コロンビア大博士・コロンビア大助教授・日本で2年間教員)、財政担当のF.リゾー陸軍大尉(コーネル、ニューヨーク、ジョージタウン各大学卒、投資銀行チーフ・エコノミスト)、J.I.ミューラー(ジョージタウン大ロースクール卒・日本語担当官)、M.J.エスマン陸軍中尉(プリンストン大政治学博士)、地方自治担当者の一人はティルトン陸軍少佐(ハーヴァード大ビジネススクール卒、大学教員歴任)で、彼は1945年10月下旬から約30回にわたって、田中二郎教授(行政法担当)から日本の地方自治制度についての集中講義を受けていた。人権委員会ではロースト陸軍中佐(ライデン大医学部卒、シカゴ大で社会学博士、南カリフォルニア大で国際関係・法律・経済を研究、大学教員歴任)、ワイルズ(経済学・ハーヴァード経済学部大卒、ペンシルバニア大博士、テンプル大人文学博士、慶応大学で経済学講義、日本通のジャーナリスト)、ベアタ・シロタ(5歳から日本滞在10年、ミルズ大卒、20歳代ではあるが、タイム誌の外信部日本課勤務)。(以上の委員の履歴は古関彰一『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫、竹前栄治・岡部史信『第1巻憲法制定史』小学館文庫、参照)。法律家をはじめ各分野のエキスパートたちが憲法草案を練ったのである。
 草案作成は、2月3日から、いわゆる密室9日間のうちに成し遂げられた。この間、担当者たちは不眠不休の体制で、ヨーロッパ諸国の現行憲法、ワイマール憲法、ソ連社会主義憲法、民間の諸改憲案、等々を参照した。GHQは民間改憲案のうち、国民主権のもとで天皇制存続を主張した鈴木案を最も注目したとのことである。
 改憲草案はこの起草過程が示すように、あたかも無から有を生じさせるがごとく、単にGHQの改憲起草者たちの頭からひねり出した恣意的な産物ではなく、17〜20世紀をかけて闘われた欧米人民の諸闘争によって獲得されたブルジョア民主主義の一到達点を示すものである。このことは現行憲法にも最高法規として明確に規定されている。「この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第十章 最高法規 第97条)。
 憲法草案を短期間のうちに、仕上げることが出来たもう一つの理由は、アメリカ政府が日米開戦の直後から、既に日本占領計画を練っていた事実にある。たとえば、米国心理戦共同委員会は1942年5月頃、天皇を平和のシンボルとして利用するという計画や傀儡天皇制国家構想を持っていた(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社新書)。これと同様の構想は、中国・延安に亡命していた日本共産党最高指導者の岡野進(野坂参三)も抱いていた。米国務省の高官エマーソンが日本共産党の戦後の天皇制構想を探るために岡野の許に派遣されたが、その報告(1944.12.4)によれば、岡野は天皇制と皇室を区別して国民の多数が望むならば「儀式的傀儡機関」としての皇室を認めてもよい旨を述べたという。なお、エマーソンはマッカーサーの政治顧問であったアチソンの配下に属し、日本統治にも参画していた。天皇存続派のグルー(日米開戦時の駐日大使)の影響下にあった国務省極東課員マックス・ビショップは1943年頃、「象徴」として天皇制を維持すべきとも主張していた(中村政則『象徴天皇制への道』岩波新書)。また、よく知られているように人類学者ルース・ベネディクトは、対日占領政策をスムーズに行うため日本人の精神構造や習慣を広範に研究していた(ルース・ベネディクト『菊と刀』講談社学術文庫)。なお、米国務省による1942年以来の、広汎で分厚な日本研究については、上掲の『日本国憲法制定の系譜T』に詳しく紹介されている。

GHQ案反対からGHQとの共闘へ―幣原内閣の方針転換
 GHQ案は2月13日、幣原内閣に手交された。しかし、幣原首相はこれを閣議にかけることを躊躇し、閣議は2月19日になって漸く開かれた。幣原首相はGHQ原案反対論であり、一方、芦田均厚生相は、もしこれが公表されたならば世論はこれを支持し現内閣は責任をとらざるを得ないと主張するなど、議論が紛糾し結論を得なかった(上掲、古関)。しかし、2月21日の幣原・マッカーサー会談で、マッカーサーはFECの天皇制廃止圧力に抗し天皇制を守るためには、この憲法草案の受諾以外にはない旨を主張し、恫喝した。この会談の結果、翌22日の閣議は一転して、GHQ案の受諾を決定した。押し付け憲法論者はこの事実をもって、押し付け憲法と称しているのである。
 確かに、日本が置かれている国際情勢も日本ファシズム敗北の世界史的意味を持全く理解できなかった頑迷固陋な明治憲法維持論者にとっては、GHQ案は押しつけであった。しかし、GHQ原案の中に体現された民主的・平和的条項は客観的には、国際的な反ファシズムの力が、無自覚で反動的な天皇制日本政府に押し付けたものであることをも意味した。一方、芦田がいみじくも主張したごとく、GHQ案が公表されたならば、日本国民はこれを支持するであろう、というのが真実であった。日本人民にとっては、GHQ案は決して押しつけではなく、歓迎すべき贈り物であったのだ。このことは、GHQ案を基礎とした現行憲法が公布された際には、90%前後の世論の支持があったことによってもはっきりと証明されていることである。
 幣原内閣が、GHQ案がFECに対抗して天皇制を守る唯一の方策であることを理解した途端、これを一大転機として、内閣とGHQとの共闘が開始される。最早この時点では、GHQ原案は、内閣にとっては「押しつけ憲法」ではなく、「守るべき憲法草案」に根本的に転化したのである。このことは、幣原首相の枢密院における説明にもよく表れている。「(極東委員会が)日本皇室を護持せんとするマ司令官の方針に対し容喙の形勢がみえたのではないかと想像せらる。マ司令官は之に先んじて既成の事実を作りあげんが為に急に憲法草案の発表を急ぐことになったものの如く・・・此等の状勢を考えると今日此の如き草案が成立を見たことは日本の為に喜ぶべきことで、若し時期を失した場合にはわが皇室の御安泰の上からも極めて懼るべきものがあったように思われ危機一髪とも云うべきものであった」(1946.3.20、上掲、古関)。

日本政府によるGHQ原案の姑息な修正
 幣原内閣は、GHQ原案をそのまま受け入れたのではない。天皇制政府に都合のいいように、いくつかの重要な点で姑息な修正を行った。
(1)原案の前文をすべて削除と回復
 前文は日本の過去の侵略戦争を反省の意味を込めて、平和主義・国民主権論・平和的生存権など日本国憲法の根幹を宣言した部分である。とくに前文は日本流王権神授説である「万世一系」の天皇制論を廃し、ロック流の社会契約論=信託説を採用していた。この規定は、先の「天皇人間宣言」にもかかわらず、天皇権力が天照大神・神武天皇以来、神与の権力であるとの明治憲法観が染みついた支配階級にとっては我慢のならなかったことである。しかし、この削除に気づいたGHQは原案遵守を命じた。
(2)一院制及び土地・天然資源の国有化条項の修正・削除
 貴族院を不必要とした衆院一院制原案を、衆議院する保守派の防波堤としての参議院を加えて2院制に修正。土地・天然資源の国有化は削除。これらの2点はGHQも承認した。
(3)人民主権の削除と国民主権の回復
 国民主権に関して、前文と第1条の原文はthe sovereignty of the people’s will(主権としての人民意思=人民主権)と表現されていたが、これをthe supreme will ofthe people(国民の至高意思)に修正。この修正については最初、GHQも気づかなかった(詳細は後述)。
(4)peopleを「国民」に改訳
 GHQ原案では、nation(国民)ではなく人民を意味するpeopleという言葉を採用していた。この単語はそれまでも一般的に、「人民」と翻訳されてきた。例えば、リンカーンのゲティスバーグ演説である、‘government of the people, by the people,for the people‘について、定訳は「人民の、人民による、人民のための政治」ということであった。マッカーサーの日本国憲法草案でも、その第1条は、「皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又自国人民ノ統一ノ象徴タルヘシ」(1946.2.13)とされていた。だが、日本政府案では、peopleはすべて国民と翻訳された。「人民」という言葉はそれまでの日本語では、天皇と政府に対抗する用語と理解されてきたので、このニュアンスを回避したかったこと、さらに重要なことは、次に示す通り、基本的人権の享受を日本国民に限定するということに、その意図があった。
(5)基本的人権の享有を日本国民に限定
 基本的人権の擁護に関して、GHQ原文は、「一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ」(第13条)とされた。つまり、一切の自然人とは、何人であれ国籍の如何を問わず平等だということである。しかも、GHQ案では明確に「外国人ハ平等ニ法律ノ保護ヲ受クル権利ヲ有ス」(第16条)と規定されていた。だが、政府は法律的平等を狭く日本国民に限り、しかも日本国民の要件は法律に委ねた。
(6)皇位の決定者としての人民を削除
 人民の基本的人権に関する、日本政府の最も重要な修正は次の点である。GHQ原案では「人民ハ其ノ政府及ビ皇位ノ最終決定者デアル」(第14条)となっていたが、これをすっぽりと削除したことである。いうまでもなく、人民を皇位の最終決定者とすることは、日本政府にとってはとうてい認めがたいことであった。
 政府は以上のような修正を加えて、政府案をひらがな口語文に直した「帝国憲法改正案正文」を4月17日に発表し、直ちに枢密院に諮詢し、そこで11回の審査が行われた。枢密院本会議は6月3日、美濃部達吉顧問官の反対を除いてこれを可決した。美濃部は終始一貫して明治憲法遵守を主張していた。彼は戦前、その天皇機関説によって天皇制ファシズムに対する自由主義的対抗論を展開し、その意味で重要な役割を果たして弾圧されたのだが、しかし、戦後は国際的な民主主義の大波に乗り越えられてしまったたといえる。美濃部に限らず、ファシズムによる学問の自由の圧殺の代表的な事件のひとつである京大事件の際、抗議のため連袂辞職した佐々木惣一教授なども含めて、戦前の憲法学者の大御所のほとんどは、全て同様の状態であった。

極東委員会の重要な役割
 FECは日本占領政策に関する最高決定機関ではあったが、執行権を欠き、委員長はアメリカ、本部はワシントン、しかも11カ国の寄合所帯である、という諸事情の下では時宜に応じた迅速で的確な決定がおこなわれ難い、という弱点をもっていた。それにも拘わらず、日本国憲法制定に関しては重要な役割を果たした。
(1)FECの衆院選挙延期の申し入れ(1946年3月29日)
 FECは、4月10日に予定されている衆議院議員選挙の延期をマッカーサーに申し入れた。それは、日本政府による改正憲法草案の新聞発表が3月7日であり、国民の間には十分にその内容が浸透していない、という理由であった。だが、マッカーサーはこれを無視し、その結果、総選挙が予定通り4月10日に行われて、自由党141議席、進歩党94議席、社会党93議席となった。
(2)FECの憲法採択の3原則(5月13日)
(@)憲法審議に対して十分な時間を確保すること
(A)明治憲法との法的継続性を保つこと
(B)国民の自由な意思表明を保障すること
上記(A)については既に戦時国際法である「ハーグ陸戦協定」(第43条)で被占領国における現地法の尊重という原則が定められており、これが遵守されたのである。
 マッカーサーと日本政府は当初、短期間のうちにしかも無修正で憲法改正を仕上げるつもりではあったが、マッカーサーといえども、このFEC決定を無視することが出来ず6月22日、憲法審議には十分な時間が与えられるべきことを声明した。
(3)FECの「日本の新憲法についての基本原則」(7月2日)
 FECは憲法原案の国会審議に合わせて、いくつかの極めて重要な指摘を含む指令を発した。
(@)人民(people)主権の原則の確認
(A)成年による普通選挙の明確化
(B)独立した司法部の確立
(C)すべての日本人及び日本の管轄下にあるすべての人に対する基本的市民権の保障・法の前の平等・貴族のような特権の廃止
(D)地方政治における首長と議員の選挙による選出
(E)日本国民の自由に表明された意思を実現するような方法での憲法改正
(F)天皇制の存廃は国民の自由に表明された意思によって決定されるべきこと
(G)内閣総理大臣および国務大臣はすべて文民であること。総理大臣と閣僚の過半数は国会議員であること
(H)天皇制が存続する場合は、天皇はあらゆる場合に内閣の助言に従って行動すること。天皇大権の全廃
(I)皇室財産はすべて国有化
(ローマ数字の番号は、便宜的に筆者がつけた)

議会審議でのいくつかの重要な修正と条項付加
 国会における憲法改正審議は、幣原内閣に代わり、多数党となった自由党・吉田茂内閣の下で開始された。政府案は6月25日に衆議院に上程され、約3ヶ月半の議会審議を経たのち、後述するように様々な重要な修正を加えられたうえで10月7日、帝国議会を通過し、10月29日、枢密院本会議で改正憲法が可決され、吉田政府は明治節(明治天皇誕生日)を選んで1946年11月3日、これを公布した(実はGHQはこの日の意味を知らなかった)。
(1)国民主権の回復
 政府草案の「国民の至高権」について疑義が最初に提出されたのは枢密院審議においてであったが(5月3日)、これについては法制局長官の説明によってウヤムヤにされた。次に「民主主義科学者協会」において中村哲がこの問題を論じ(6月1日)、議会でも野阪参三(共産党)、黒田寿男(社会党)が政府に質問をしたが、政府はまともに答えなかった。在野では松本重治が『民報』において国民主権たることを論じた(7月2日)。GHQはこれに注目した。それというのは、GHQはこの問題について、上掲のFECの見解(7月2日)の冒頭に「人民主権」たるべき、明記されていることを熟知しており、ことの重大さを認識していた。そこでマッカーサーは吉田政府に救いの手を伸べ、自由党・進歩党に「国民主権」への修正案を提出させて、これを可決した。
(2)第9条1項へ「国際平和」を追加
 GHQ原案及び日本政府案の第9条1項冒頭には、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の一節はなかった。この一節の追加を主張したのは、社会党であり、議会審議においてそれが承認された。
(3)第9条2項の芦田修正
 芦田均は第9条2項に、「前項の目的を達するために」の一文を追加する修正案を提出し、議会はこれを特別に議論することもなく可決した(9月21日)。後に、芦田はこれを挿入したのは、第1項にある武力放棄の意味は、国際紛争を解決する手段としてはこれを認めないが、自衛権を行使することは認められるべきだからだ、と主張した。だが、修正案提出の際にはそのような説は一切なかった。1995年に公開された当時の「秘密議事録」によれば、この一文は第1項にある「平和を希求し」という語を、第2項でも繰り返さないために挿入した、と芦田が述べていたことが判明した。芦田は1950年頃までは、軍備撤廃を主張しており、1951年に入った頃から自説を変えて、自衛の為の軍備を主張するようになったようである。
(4)文民規定(第66条2項)の追加
 「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」の追加。FECに回付されてきた日本国憲法草案(8月24日)には、上掲のFEC見解(7月2日)の(G)明記された総理大臣・国務大臣についての「文民」規定が欠落していた。最初にこのことを指摘したのはソ連代表であった。さらに、中国(中華民国)代表は、芦田修正が「9条1項で特定された目的以外の目的で陸海空軍の保持を実質的に許すという解釈を認めていることを指摘したい。・・・たとえば自衛という口実で軍隊を持つ可能性があることを意味します」(下線は筆者)。この見解にFECの多くのメンバーが賛成し、マッカーサーに文民条項の挿入を申し入れた。その結果、マッカーサーは芦田修正に関するFECの見解は伝えずに、文民規定の挿入の必要性だけを日本政府に伝え、これが貴族院で可決された。日本が警察予備隊創設に始まり、今日の世界有数の軍隊にまで成長した自衛隊の現状を見るとき、中国代表の鋭い見通しには今さながら脱帽の思いを深くせざるを得ない。
(5)生存権(第25条)の追加
 政府原案には生存権の規定はなかったが、社会党の主張でこれが新設された。明らかにこれは、ワイマール憲法の生存的基本権やソ連憲法からヒントを得たものであった。
(6)義務教育の無償化の拡大(第26条2項)
 政府原案では、初等教育を無償とするとなっていたが、これでは小学校教育しか無償にならないことになる、と気づいたのが青年学校の教員たちであった。青年学校とは、尋常小学校卒業後、中学校へは行けなかった青少年の教育機関であった。全国の青年学校の教員たちが猛運動をした結果、「義務教育は、これを無償とする」という規定に修正され、新制中学校を含めて、無償化が実現したのである。(以上の@〜Eについては、古関彰一『9条と安全保障』小学館文庫、同『平和憲法の深層』ちくま新書、及び前掲の古関に詳しい。なおBについては(「新聞と9条」第37、「朝日新聞」連載、2015.5.28、参照)。
(7)その他GHQ原案には欠落していた条項の付加
 成年者による普通選挙権の保障、総理大臣及び閣僚の過半数は国会議員であること、皇室財産の国有化(以上はFEC原案参照)、公務員の不法行為に対する国家賠償制度。明治憲法下においては、国家無答責の原理によって国家に賠償責任はなかったのである。一方、1919年のワイマール憲法第131条は国家賠償責任制を規定されていた。国民の納税義務、刑事補償、等の新設。

日本国憲法改定の機会を自ら潰した吉田首相
 FEC内のオーストラリアとニュージランドは、象徴天皇として残った日本国憲法案には反対であった。そこでFECは10月17日、日本国憲法案の再検討の機会を与える旨の書簡をマッカーサーに送った。彼は直接これを日本側に伝えることをしないで、日本国憲法が公布された翌年の1月3日、吉田首相に憲法施行後1〜2年の間に憲法の自由な改正を認める旨の書簡を送った。これに対して、吉田首相は1月6日、これに留意する、というたった1行で済ます極めて素っ気ない返書を送った。
 マッカーサー書簡はすこし長いが、今日の押しつけ憲法論批判の上では重要なので引用しておく。
 「昨年1年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必用とならば改正する、全面的にして且つ永続的な自由を保守するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本人民並びに国会の正式な審査に再度付されるべきことを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時点で憲法改正を必用と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくは何らかの適切な手段をさらに必用とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意志の表明であることを将来疑念がもたれてはならないと考えている」(ダグラス・マッカーサー、1947年1月3日。袖井林二郎編訳『吉田茂=マカーサー往復書簡[1945-1951]』)。これに対して、吉田返書は「1月3日の書簡確かに拝受いたし、内容を仔細に心に留めました」(1947年1月6日)、とこれだけである。
 吉田首相にとっては、天皇制が確保された日本国憲法を訂正する必要は一切なかった。日本国憲法は、彼にとっては押し付け憲法どころか、臣茂として、満足すべき憲法であったのだ。
 但し、臣茂にとって痛恨事が一つ残った。日本国憲法制定と合わせて、GHQの命令で刑法(明治40年制定)改正が行われ、「皇室ニ対スル罪」、つまり大逆罪(刑法第73条、75条)と「不敬罪」(同74条、76条)とが刑法から削除されたことであった。周知のとおり、大逆罪は幸徳秋水らのいわゆる「大逆事件」をデッチあげた刑法の根拠条項であり、また1946年の食料メーデーで「朕はたらふく食とるぞ。汝臣民飢えて死ね」とのプラカードを掲げた共産党員が、「不敬罪」で逮捕され、名誉棄損で有罪となった事件があった。吉田は新憲法の下でも、せめて「不敬罪」だけでも存置することを強く願ったが(マッカーサー宛書簡、1946年12月27日)、マッカーサーは熟考の末、これを拒否した。

外国軍に占領された期間に制定された憲法は無効か
(A)フランスとドイツの場合
 「押しつけ憲法論」の重要な論拠の一つは、外国軍に占領された期間に制定された憲法の無効論である。「日本国の主権が制限された中で制定された憲法には、国民の自由な意思な意思が反映されていないと考えます」(前掲、自民党『改憲草案』、Q&A1)。この主張が、あたかも今日の国際的な通説であるかのごとく主張され、その代表的な例としてフランス憲法やドイツ憲法が挙げられている。
 フランスは1940~44年まで、ナチス・ドイツに占領され、北部はドイツの直轄支配とし、南部は傀儡政権であるビシー政権が支配した。戦後、フランス政府はビシー政権の存在すら認めてこなかった。フランス1946年憲法はこの歴史的経過を承けて、「外国軍隊によって本国領土の全部または一部が占領されている場合は、いかなる改正手続きも、着手または継続されてはならない」(第94条)としたのである。
問題の核心は、外国軍の占領一般ではなく、ファシズム国家に占領されたのか、あるいはファシズム撲滅・民主主義の回復を掲げる反ファシズム勢力に占領されたのか、という根本的な違いにある。この違いを無視して一般的に外国軍の支配期間中の憲法は無効、だという国際的通説は存在しない。
 西ドイツは米英仏の三国占領下で、ボン基本法を制定し(1949.5)、ドイツ連邦共和国となった。憲法でなくて基本法としたのは、必ずしも占領下という事情のためではない。それが証拠に、ドイツ連邦共和国が完全に主権を回復したのが1954年であったが、しかし、同国はボン基本法を基本的に維持した。憲法ではなく基本法としたのは、東ドイツ=ドイツ民主共和国を併合し首都ベルリンが帰ってこないうちは、本来のドイツが成立せず、したがって正式の憲法が成立しない、という理由であった。だが、ドイツ統一が1990年に果たされたが、その後、四半世紀を経た今日、ボン基本法に代わる新たな憲法を作成する動きはない。この意味でボン基本法はドイツ憲法として定着している。したがって、この場合でも、外国軍占領期間中の憲法は無効だ、という国際的通説は存在しないのである。

(B)空想主義としての占領憲法無効論
 歴史解釈において、If論を導入することはしばしば荒唐無稽な結果になるが、占領憲法無効論の馬鹿さ加減を明らかにするために敢えて、占領憲法無効論を歴史的に検証すればどのような結果になるのか、試みてみよう。
まず、占領憲法期間中の憲法が無効であるとすれば、日本国憲法が発効した1947年5月3日以来、現在に至るまでの全法律は無効な憲法な下での法律として無効であるし、安倍内閣を含めて自由党・自民党内閣等すべての歴代内閣は、非合法内閣となる。
 また、外国軍占領下では、憲法に手を付けてはならないとすれば、日本が独立する1952年4月27日までは、明治憲法の支配となる。だが、明治憲法存続の可能性を主張するためには、戦後政治の行方を決定した、日本の敗戦、ポツダム宣言の受諾、降伏文書の調印、GHQの支配、極東委員会の存在、等々の歴史的要因がすべて存在しなかったことにしなければならないのである。

国民に定着した日本国憲法と最近の世論傾向
 自民党は、占領下の憲法は日本国民の自由な意思が反映したものではない、という。なるほど、明治憲法固執論者の声はほとんど反映されなった。だが逆に、国民投票こそ行われなかったが、憲法自身は国民の圧倒的多数の支持で迎えられた。政府も当初、その普及に努めた。その後、芦田内閣、鳩山一郎内閣、岸信介内閣によって、主として第9条を中心に改憲の方針が掲げられたにも拘らず、国民の強い反対によってそれは実現せず、2016年はすでに指摘したように日本国憲法公布から数えて70年となる(明治憲法は57年間)。この間、日本国憲法は、国民の日々の生活と膨大な判例・学説の積み重ねの中で、日本国民の間に定着しているのである。
 最近の世論調査では、参院選挙で改憲派議席が3分の2以上を「占めた方がよい」33%、「占めない方がよい」46%(「朝日新聞」1月16~17日調査)、改憲勢力が3分の2以上を占めることを「期待する」40%、「期待しない」46%(「毎日新聞」1月30~31日調査)となっている。これらの調査は改憲勢力が3分の2以上を「占めない方がよい」、「期待しない」がやや多数となっているが、賛成・期待派との差はそれほど大きくはない。しかし、3月段階の調査では改憲反対派が過半数を占めている。「日本経済新聞」とテレビ東京の合同調査(3月25〜27日実施)では安倍政権の下での憲法改正について、賛成31%、反対52%でかなりの開きがある。
 安全保障関連法では、賛成31%、反対52%(同「朝日新聞」)、安全保障関連法を投票の「判断材料とする」53%、「しない」35%(同「毎日新聞」)となっており、依然として昨年の戦争法反対に運動の気分は持続されている。
 一方、今年1〜3月の安倍内閣支持率では、40%〜50%前後を維持している。「安倍内閣支持」42%(4ポイント増)、「不支持」38%(2ポイント減)(同「朝日新聞」)、「支持51%(8ポイント増)、「不支持」30%(7ポイント減)(同「毎日新聞」)となっている。安倍首相が一時、第9条正面突破の強気を示したのも、この支持率に基づくものと判断される。
 最近の「毎日新聞」の3月6〜7日調査によれば、内閣支持率42%(前回より9ポイント減)、不支持率38%(8ポイント増)となっている(同紙2016.3.7)が、他紙の調査では今のところ顕著な増減はみられない。例えば、「日本経済新聞」調査(3月25〜27日調査)では、内閣支持率46%、不支持率38%で、いずれも横ばいとなっている。
 いくつかの週刊誌は早々と、これらの比較的高い内閣支持率に基づいて、7月選挙における自民党の圧勝を報じている。だが、果たして事態は、安倍内閣にとって思惑通りに動くのであろうか。
 自民党の勝敗の第一のカギを握るのは、政府に批判的な大衆運動の広がり如何である。今回の選挙には、新しく18歳以上の若者たちが加わる。昨年の戦争法反対運動では、特に若者たちの活動が目覚ましく、現在でもなおその熱気は引き継がれている。「戦争法」が施行された3月29日前後の、運動状況はこのことを如実に示している。また、大津地裁判決を齎した反原発運動も、根強い広がりを持っている。
 安倍内閣の最大のアキレス腱の一つは、経済問題である。これまで、安倍内閣はアベノミクスという幻想によって株価を釣り上げ、比較的高い支持率を維持してきたが、ついにこの幻想の破綻が白日の下に晒される時がやってきた。前代未聞のマイナス金利を含む際限をしらぬ金融緩和にも拘わらず、年初よりの株価の大幅下落と乱高下、円高、GDP・景気の長期低迷、実質賃金の4年連続(2012〜15年)のマイナス、消費税値上げ問題、加えて全世界的な景気の低迷、とくに中国・アジアの景気の低落、等々が株価連動内閣の心臓部を襲っているのである。
 最後に、旧海軍の空母搭乗員として真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に加わった生き残りの兵士(94歳)の声を聞いてみよう。さすがにその言葉には、体験に裏付けられた格別の重みがある。「戦場体験者の私からすればすぐそこまで軍靴の音が聞こえている。火の粉が落ちてくる、つまり紛争が起きる直前のように思う。もっと政治に関心を持ち政治に関して高い判断力を持つ国民になろう。また戦争で息子が死に、親が泣くのをみたくないから」(「朝日新聞」2016.2.7、オピニオン)。

2016年3月29日