安倍首相は、憲法解釈の恣意的で強引な変更によって、憲法学の常識を根本から覆し、日本を戦争ができる国に変えようとしている。今、想起されるのは、戦前、同じような手法による憲法解釈に基づいて、日本国家を天皇制ファシズムに導いた、1935年の「天皇機関説」事件である。もとより、当時の大日本帝国憲法が天皇を元首とし、天皇の権力は天照大神から神武天皇に与えた権力の継承だと位置づける神話説=王権神授説を根本とするものであり、しかも、争点も天皇権力の憲法上の法的位置づけを巡るもので、戦争権限に関するものではなかった。だが、「天皇機関説」への攻撃者が、当時の憲法学の常識を覆して、日本を本格的な侵略と戦争の国家体制に変更しようとした点では、今日の安倍首相の手法と歴史的に共通するものである。 ※ 首相側近の礒崎首相補佐官が「法的安定性は関係ない」と述べ、日本国憲法を公然と蹂躙する安倍政権の本音を吐露したことはすでに述べた通りである。 近代法治国家の根本原則を否定する磯崎発言は安倍政権の本音(リブインピースブログ) 「天皇機関説」弾圧の今日的教訓 時の岡田啓介内閣はファシズム勢力に煽られて、「天皇機関説」を弾圧した。「天皇機関説」は、美濃部達吉・東京帝国大学教授の自由主義的な解釈論であり、既に大方の憲法学者の常識として定着しており、高等文官試験の模範解答でもあった。だが、政府は美濃部の著書を発禁にし、検事局が取り調べを行うと同時に、改めて神懸かり的で天皇の絶対的権力を強調する「国体明徴論」を掲げて、結局は、ファシズムと戦争への道を掃き清めることとなった。大日本帝国憲法が、たとえ天皇制絶対主義憲法であったとしても、その解釈を政府の都合に合わせて、勝手気ままにいっそう反動的に変えることが、どのような政治的歴史的結果を生み出したのか、という歴史的事実を知る時、それは今日なお、重要な示唆と教訓を与えるものである。 さらに、自民党が日本国憲法を根本的に改悪しようとしている今日、同党の憲法観の根底には、天皇主権から国民主権の時代に根本的に変化したのも拘わらず、今なお「国体明徴論」の基本精神が脈打っていることも、同時に指摘しなければならないのである。 「天皇機関説」の弾圧が、どのような時代背景の下で行われたか、ということを知るため、まずごく簡単に当時の年表を振り返ってみよう。
天皇機関説 「天皇機関説」以前の憲法解釈は、統治権は天皇に属し、いわば天皇の無制約の絶対的・専制的権限を主張するもので、東京帝国大学教授の穂積八束や上杉慎吉らの理論であった。これに対して、美濃部達吉・東京帝国大学教授は、憲法における天皇大権を前提としながらも、神話に基づく絶対主義的な解釈を排して、憲法の自由主義的解釈を行った。つまり、主権は国家に属し、天皇はその最高決定機関であり、同時に天皇は恣意的に権力を行使するのではなく、天皇は元首にして統治権を総攬するが、それは「此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」(憲法第4条)ことが原則であることを主張した。 この理論は、ドイツにおいてカイザーの絶対主義権力を制限するために登場した、イエリネックの国家法人説に基づくものであった。日本は1920年代、ロシア革命や米騒動の大きな影響のもとに、いわゆる大正デモクラシー全盛の時代に入っていた。吉野作造の「民本主義」が一世を風靡し、政治的にも護憲三派内閣が成立し男子普通選挙法が施行され、いわば政党内閣と立憲議会政治が一時的に成立した時代でもあった。この「天皇機関説」は、東大と並ぶ西の憲法学の権威であった佐々木惣一・京都帝国大学教授らも認めるところで、いわば憲法学会の常識となっていた。 美濃部は、単に自由主義的な憲法解釈を行うのみではなく、満州事変に際しては軍部を批判し、前蔵相・井上準之助が血盟団のテロに倒れた時には激しい右翼批判を行い、「陸軍パンフレット」に対しても陸軍の政治介入を鋭く批判した。 右翼の攻撃 文部省は、古事記・日本書紀を歴史的真実として教え、憲法学会の常識に反して、それに基づく天皇の専制的権力論を擁護し、中学校の教科書には一貫して「天皇機関説」を採用しなかった。軍部も軍人教育には「天皇機関説」を排除してきた。天皇制絶対主義の権化たる山県有朋は「天皇機関説」はもとより、天皇の権威によっていつでも憲法などは停止すべきである、と述べてはばからなかった。 「天皇機関説」排撃の口火を切ったのは、京大事件でもそうであったように、上杉慎吉教授の弟子であった蓑田胸喜・慶応大学教授である。彼の使嗾によって、同郷の菊池武夫・貴族院議員(陸軍中将・男爵)が貴族院において、「天皇機関説」排撃演説を行ったのであった。彼は、美濃部を「反逆者」「謀反人」「学匪」と激しく罵った。今日の、ヘイトスピーチや某作家の罵詈雑言にも決して引けを取るものではなかった。 美濃部の弁明 弁明に立った美濃部は貴族院に於いて、「凡そ如何なる学問に致しましても、其学問を専攻しております者の学説を批判し其当否を論じまするには其批判者自身が其学問に付て相当の造詣を持て居り、相当の批判能力を備えて居なければならぬと存ずるものであります。・・・(ところが菊池男爵は)恐らくは或他の人から断片的に、私の著書の中の片言隻句を示されて、其前後の連絡を顧みず、唯其片言隻句だけを見て、あらぬ意味に誤解され、軽々に是は怪しからぬと感ぜられたのではなかろうかと推測されるのであります」と述べ、懇切丁寧に自らの学説を解説した。そして最後に「以上述べましたことは憲法学に於て極めて平凡な真理でありまして、学者の普通に認めて居る所であり、又近頃に至って初めて私の唱へ出したものではなく、30年来既に主張していたものであります。今に至って斯の如き非難が本議場に表れると云ふやうなことは、私の思も依らなかった所であります」と述べ、改めて「真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明らかにし、真の意味を理解して然る後に批評せられたいことであります」と結んだ。(宮沢敏義『天皇機関説事件』上、斜体は原文では傍点)。約1時間の美濃部の弁明に対して議員一同静粛に聞き入り、当議院には珍しく拍手さえ起ったと伝えられえている。 安倍首相と自民党も「砂川判決」の片言隻句を捉えて、憲法学の「極めて平凡な真理」をひっくり返し、集団的自衛権をごり押しているが、改めて美濃部の弁明を熟読玩味してはいかがのものであろうか。 政府と議会の追い討ち 衆貴両院は、美濃部の弁明にも拘わらず、政友会が先頭に立って、天皇機関説を非難し、国体明徴の決議を行った。岡田内閣も美濃部の3著を発禁にしたが、しかし、なお右翼の攻撃が激しく、岡田内閣は「国体明徴に関する声明」(第一次)を発表し、美濃部も貴族院議員を辞職せざるをえなかった。それでも事態は収まらなかった。政府は第二次「国体明徴に関する声明」を発表、続いて文部省は国体明徴論を理論的に体系化した『国体の本義』を発行した。これによって天皇の神性と絶対性を強調すると同時に、ヨーロッパで発達した自由・平等の権利論を否定した。当時のほとんどの新聞・雑誌は満州事変来、ごく少数の例外を除いて、政府の御用新聞と化しており、もはや美濃部を積極的に擁護する論調は希であった。 国体の本義 文部省『国体の本義』の論旨はおよそ次の通りである。同書はまず、当時の諸困難と混乱の原因を、ヨーロッパ啓蒙思想と個人の自由・平等主義の輸入に帰する。 先ず、その「緒言」で「抑々我が国に輸入せられた西洋思想は主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或いはその延長としての思想である。これらの思想の根底をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於いて個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界観を尊重するものである」。これに対して、『国体の本義』が対置するのは天皇制国家論である。 次に「肇国」(チョウコク、国の始まり)と題して「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じてこれを統治し給ふ。これわが万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉戴して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである」と規定する。 最終章において、「天皇は統治権の主体であらせられるのであつて、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関に過ぎないといふ説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲といふ以外に何らの根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者に止まらせられるお方ではなく現御神(アキツミカミ)としてとして肇国以来の大義に隨つて、この国をしろしめし給ふものであって、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵ヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於いてみられるこれと類似した規定は、もちろんかゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によって確保せんとするものに過ぎない」と締めくくられる(原文は旧漢字、カタカナの読み、平かなの解説は筆者)。 蘇る『国体の本義』―自民党の憲法観の危険 自民党は2012年、「日本国憲法改正草案」及びそれに付随したQ&Aを発表した。憲法改正論の基本視点は、日本国憲法がアメリカの押しつけ憲法であり、その基調が日本の伝統を無視したヨーロッパ思想にある、とするものである。このような思想構造の根底には、自民党改憲草案の起草者たちが『国体の本義』を参照したのか否かについて筆者は知らないが、客観的には『国体の本義』の精神が横たわっていることは疑いえない。このことは、上述の『国体の本義』と「改正草案」とを比較すれば一目瞭然である。 (1) ヨーロッパ啓蒙思想に日本固有の文化・歴史を対置 日本国憲法前文について。「前文は、我が国の歴史・伝統・文化を踏まえた文章であるべきですが、現行憲法の前文には、そうした点が現れておりません」(Q&A3)。したがって、「改憲草案」は、その前文の第一段落を「我が国は、長い歴史と固有の文化をもち」という文章から始める。 国民の権利義務について。「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化 、伝統を踏まえたものであること必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました」(Q&A14、下線は原文)。 ここで明らかなことは、「改正草案」が、ヨーロッパ啓蒙主義・自然権論に、日本固有の文化・歴史を対置していること、さらに前文の第三段落が、「家族や社会全体が互いに助けあって国家を形成する」とすることによって、『国体の本義』に謳われている「一大家族国家」論を再登場させていることである。 「改憲草案」は、基本的人権をいささかも否定するものではないと主張しているが、しかしそれはまやかしにすぎない。「改正草案」は、人権は「公益及び公の秩序に反しない限り」(第13条)という制限条項を設けて、事実上は、基本的人権を根本的に否定しているからだ。大日本帝国憲法が、臣民の権利義務について「安寧秩序ヲ妨ゲ」ない限りとか(第28条)とか「法律ノ範囲内ニ於テ」(第29条)とかという制約を付けたのと本質的に同じである。 (2) 天皇元首論 「改憲草案」は、天皇を大日本帝国憲法に倣って元首と規定し、同時に象徴規定を踏襲している(第1条)。だが、その主眼は元首規定にある。しかも、現行の日本国憲法に規定されている天皇の憲法遵守義務(第10章最高法規・第99条)を故意に外している。その理由は天皇には政治的権限がないからだとしている。だが、政治的権限のない元首は存在しない。本来、国政に関する権能を有しない象徴天皇制規定と元首規定とは二律背反である。「改憲草案」が天皇を元首とする限り、元首は憲法遵守義務がある。大日本帝国憲法においてすら、「天皇機関説」の主たる論拠とされているごとく、天皇には憲法遵守義務があった。改めて示せば、「天皇ハ元首ニシテ統治権ヲ総攬し此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」(第4条)。「改正草案」の本音は、『国体の本義』が強調しているのと同様に、「天皇は神聖ニシテ侵スヘカラス」(同第3条)、つまり天皇の神性の強調と天皇に政治責任なしとする無答責性の主張にある。 一方、「改憲草案」は、日本国憲法には存在しない、国民の憲法遵守義務の条項を新設している(第102条)。憲法は基本的には、国家に対する命令、国家権力よる人民の諸権利の侵害を排除するための基本法規である。これは、国王と臣民との封建契約ではあるが、世界史的には憲法の元祖たる意味をもつ『マグナ・カルタ』以来の不動の伝統であり、全世界的な常識である。ここでも、「憲法草案」は全く世界に通用しない、唯我独尊的な「非常識」を恥ずかしげもなく曝しているのである。 戦後、美濃部教授や佐々木教授らが「天皇機関説」で十分として大日本帝国憲法の改正に反対し、その結果、彼らは日本国憲法と日本国民によって乗り越えられてしまったが、しかし現在でもなお、戦前においてファシズム的憲法観に抗した、「天皇機関説」の歴史的意義については、否定することはできないのである。 2015年7月31日 |
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